約束 -雑踏2-



 

 店内から溢れる流行の音楽。忙しげな足音。弾んだ会話。行き交う車のエンジン音とクラクション。
 そんな街の息遣い(ノイズ)で満たされた道を、ジョーは人の波を擦り抜けるように足早に駅へと向かっていた。

(あと、5分か…ギリギリだな)

 歩く速度を落とさずに、ちらっと腕時計に視線を落として現時刻を確認し、密かにほうっと安堵の溜息を吐く。
 彼女と待ち合わせた時間まで、あと5分。
 駅の近くの駐車場が満車で、少しだけ遠くの駐車場に愛車を停める事になってしまうというハプニングはあったものの、このままのスピードで歩けば約束の時間には間に合うだろう。

 梅雨の晴れ間。
 今朝までの雨の名残が、アスファルトにも街路樹にも未だ僅かに残っていた。
 こんな緑の極端に少ない、人々の汚濁に塗れた街でも、雨に洗われた大気は清々しく、鉛色の雲の隙間から差し込んだ薄い陽射しが、雫をきらきらと輝かせている。

(雨が上がって良かった……)

 「デートしようか…」、彼女をそう誘ったのは昨夜のこと。
 理由は単純明快だった。

 夕方のTVの天気予報で、『明日は久しぶりに太陽が顔を出す』と告げていたから……。





 ――前夜――

「フランソワーズ……まだ起きてる?」

 自分の腕の中に在る細い躯をしっかりと抱き寄せながら、ジョーはずっと訊けずにいた問いに繋がる言葉を押し出す。

 睡魔へと溶けかかっていたフランソワーズは、ジョーの改まった真面目な声に、びくっと身体を震わせると、彼の胸に顔を埋めたまま、「どうしたの?」と尋ねた。

「……あのサンダル、どうして履かないの?」
「え?」

 先日、彼女と街に出かけた時に、偶然とある店先で見つけた夏らしい可愛いサンダル。
 彼女がきらきらと瞳を輝かせてそのサンダルを眺めているのに気付いたジョーは、迷わずそれをプレゼントした。
 だけど、それから幾日も経っているのに、彼女はそのサンダルを履こうとしない。

「それは……」
「……気に入らなかった?」
「ううん。気に入ってるわ。凄く気に入ってる。だから……」

 フランソワーズは首を横に降ると、そろそろと顔を上げ、不安そうに自分を見つめるジョーと視線を合わせる。

「だから、ね……雨の日には履きたくないの」

 本当は直ぐにでも履きたいのに……あの翌日から、ずっと雨が降り続いているのだ。
 ジョーからプレゼントして貰った大切なサンダルだから、雨に汚したく無くて、結局ずっと部屋に飾ったままになってしまっている。

「フランソワーズ……」

 ほんのりと頬を染め、恥ずかしそうに、今までサンダルを履かない理由を…、履けない理由を告げるフランソワーズが可愛くて、ジョーは益々強い力で彼女を腕に拘束する。

 ぴったりと彼の逞しい躯と密着し、その肌のぬくもりを全身で感じ、フランソワーズは、かあぁぁっと耳まで赤くなりながら、慌てて彼の胸を両手で押し返す。

「ジョ、ジョー……そんなに、キツくしたら…痛いわ」
「ごめんごめん。君があんまり可愛いから……」
「もしかして…ばかにしてるでしょ」
「まさかっ 本当に可愛いって思っているよ」

 拗ねて膨らんだ彼女の頬にジョーはひとつキスし、にっと不敵に微笑むと、つつつ、と上質な白い肌に指先を滑らせる。

「それとも……未だ証明し足りないかい?」
「っっ!?」

 ジョーの熱を帯びた視線に…、彼の言葉の真意に気付き、フランソワーズはびくんっと大きく身体を震わせると、枕に顔を埋めるように俯く。

 その予想通りの彼女の反応に、ジョーは堪え切れず破顔すると、声に出して笑う。

「もうっ ジョーなんて知らないっっ」

 フランソワーズは自分がからかわれている事を悟り、彼の腕からばっと逃れると、くるりと彼に背を向ける。

「そんなに怒らないでよ」
「……。」
「フランソワーズ?」
「………。」

 自分に背を向けたまま返事をしなくなってしまったフランソワーズに、ジョーは「やれやれ」と苦笑する。
 どうやら本格的に機嫌を損ねてしまったらしい。

 ジョーは暫し考えた後、毛布から覗く小刻みに震えている彼女の白い肩にそっと触れる。

「機嫌直してよ、フランソワーズ」
「……。」
「困ったな……じゃあ、さ…お詫びに、明日、何処かに出かけようか?」
「え?」

 予想もしなかったジョーの言葉に、フランソワーズは思わず彼へと振り向く。
 そこにあったのは…、何処までも優しい彼の瞳。

「でも…明日、お仕事があるって…」
「レース雑誌の取材だから、午前中には終わるよ」

 サーキット以外の仕事は、本音を言えば受けたくはない。
 それは、他人と関わるのが苦手という己自身の理由だけでは無く、フランソワーズ達を言葉(メディア)の暴力から守る為。
 自分達には隠さなければならない事が多過ぎるから……。
 けれど、スポンサーなどの様々な柵がある以上我侭を押し通すことも出来ず、必要最低限、ジョーはレース以外の仕事もこなしていた。

「だから、午後からになっちゃうけど、どうかな?」
「ほ、本当に良いの?」

 思い掛けないジョーからのデートの誘いが信じられず、フランソワーズは大きな碧い瞳をしっとりと潤ませながら、じぃ〜っと彼を見つめる。
 ジョーは「ああ」と頷くと、ふわり、と彼女を再び胸に抱き寄せ、耳元に唇を寄せ囁く。

「明日、あのサンダル履けるよ。天気予報、明日は午後から晴れるって言ってたから」





(からかわれていたのは、僕の方だったのかも知れないな……)

 昨夜の彼女との会話を思い出して、ジョーは小さく笑う。

 からかっているつもりで、実は自分が彼女にからかわれて、その策略にまんまと嵌ってしまったのかも知れない、と……。
 それならそれで構わない。

 ……彼女が笑っていてくれるのなら。

(!?)

 街のノイズに紛れて、極身近な場所から聴き慣れた音楽が流れる。
 その音の正体(出所)に気付き、ジョーは羽織っている薄手のジャケットのポケットに手を入れ、それを取り出す。
 携帯電話の画面に表示されている、メール着信のマーク。

 ジョーは少しだけ歩く速度を抑え、今届いたメールを開封する。

 ――――――――――――
 2003/06/24 12:57
 xxxxx-xxxxxx@xxxxxx.ne.jp
 ごめんなさい
 ――――――――――――
 ジョー、ごめんなさい。電車の
 乗り換えを間違えてしまって、
 20分ぐらい遅れます。
 もしかして、もう着いてる?
 ――――――――――――

(だから、迎えに行くって言ったのに……)

 フランソワーズから届いたメールを読んで、ジョーは「やっぱり」と独り語ち、眉を顰める。

 「取材の後、君を迎えに一度研究所に戻る」というジョーの申し出を、フランソワーズは「時間が勿体無いわ」とあっさりと却下した。
 取材が行われるチーム事務所に近い駅まで、電車で向かうから、と。

(…今更、後悔しても遅い、か……)

 後悔先に立たずとは、正にこの事だ。

 ジョーは通行の邪魔にならないよう歩道の端に逃れ、立ち止まると、恐らく電車の中で1人、罪悪感を抱きつつ慌てふためいているだろう彼女へと返信する。

 ――――――――――――
 ***-******@xxxxxx.ne.jp
 大丈夫かい?
 ――――――――――――
 もう直ぐ着くところ。待ってる
 から、慌てないで。
 ――――――――――――

(さて、どうしようかな……)

 メールを送信し終え、携帯電話をポケットに戻しながら、ジョーはこれからどうするべきか考える。
 このまま駅に行って、待ち合わせの場所で彼女を待つか…。
 それとも、何処かで時間を潰すか…。

(20分ぐらい、か…、下手に寄り道したら、遅れそうだな)

 「待っている」と言って(メールして)おいて、自分の方が遅れる訳にはいかないと、このまま駅へ向かう事を決意し、ジョーは先程よりゆっくりと歩き始めた。





(ジョー?)

 フランソワーズは駅の改札を抜け、待ち合わせの場所に小走りで向かう。

 夏らしい清楚なパステルブルーのワンピースに、レースのカーディガン、愛用しているカチューシャも鞄も、夏を意識したもの。
 全ては…素足を飾る水色に白いリボンの付いたサンダルに合わせた装いだった。

 その降ろしたてのサンダルが堅いアスファルトに触れるたび、カツカツという軽やかな音を立てる。

 早く……
 一刻も早く、彼の元へ!

 だが、駅から街へと放たれる人の波と、駅に向かう人の波がぶつかり交差していて、思うように前に進まない。
 心(気持ち)だけが先へと向かい、身体(現実)が追いついて行かないことが、もどかしくて仕方が無かった。

(もうっ 電車を乗り間違えてしまうなんて……)

 約束の時間をとうに過ぎていることを改めて時計で確認し、フランソワーズは益々苦い自己嫌悪に陥る。

 戦い(サイボーグ)の時は、レーダーとしての役割を担う自分。彼等に必要な情報を得、彼等を目的地まで的確に誘導(ナビ)するのが、自分の任務。
 それなのに……、
 サイボーグとしての能力は一切使っていなかったとは言え、途中で乗る電車を間違うなんて、物凄く恥ずかしい。

(もっと早くに出れば良かったわ)

 余裕を持って研究所を出た筈だった。
 電車を乗り間違えたり、駅で迷ったりしなければ、約束の時間よりも30分は早く到着した筈。

 彼より先に着いて、流れていく人達を眺めながら、彼が自分を捜し出してくれるのを待つつもりだった。
 雑踏で彼を待つ時間。それは、きっと堪らなく幸せでどきどきする、デートの大切な序章になっただろう。

(ジョー……怒ってないかしら?)

 やっと見えてきた、約束の場所。
 駅の近くに在る喫茶店(カフェ)の前。
 強化された眼を使いたくなるのを懸命に抑え込んで、フランソワーズはそこで自分を待っている筈の人影を人並みの視力で捜す。
 ところが、どんなに捜しても彼は見つからない。

(居ない? 未だ来ていないのかしら…? でも、もう直ぐ着くって言ってたのに……)

 もう一度、辺りをぐるりと見回す。
 しかし、やはり見えるのは名も知らない人達ばかりで、何処にも彼の姿は無い。

(もしかして…場所を間違えたのかしら……)

 初めての街。
 何が何処にあるのかなんて分からない。
 もしかしたら、また間違えているのかも知れないと危惧し、鞄の中にしまいこんでいた携帯電話を取り出そうとした、その瞬間だった。
 背後から何者かにいきなり腕を掴まれる。

「きゃあぁっ」
「しっ」

 悲鳴を上げる彼女の口を、大きな掌がすかさず塞ぎ遮る。
 自分を制止する短い声に聞き覚えがあったフランソワーズは、慌てて自分の背後に立つ人物を仰ぎ見た。

 そこには居たのは……悪戯げな笑みを浮かべたジョー(彼)。

「ひ、酷いわっ、驚かすなんてっ」

 自分を捕らえたのがジョーであったことに安堵しつつ、フランソワーズはいきなりの仕打ちに剥れ、非難の声をあげる。
 だが、ジョーの余裕の笑みが崩れることは無かった。

「20分チコクのお仕置き♪」
「え?」
「冗談、だよ。隠れていたのは君を驚かせる為じゃなくて、面倒なコトになりそうだったから、さ」

 現役のF1レーサーであるジョーは、一応は世間に顔が知られている。こんな人の多い表通りで20分も佇んでいたら、騒ぎになる可能性がある。そうなったら彼女と此処で逢うことが難しくなってしまう。
 その危険性を回避する為に、人目に付き難い所に潜んでいたのだ。

「ご、ごめんなさい。だって……此処を訪れるのは初めてだから…」

 きつく掴まれた腕に直に伝わって来る彼のぬくもりに、戸惑い、恥じらいながら、フランソワーズは必死に弁明する。

「乗り換え、分かり難いからね。迷った時に電話してくれれば良かったのに……」
「お仕事中だろうから、迷惑になってしまうと思って…」
「迷惑な筈無いだろ」

 ジョーはワザと少し怒ったような口調で告げ、指先で軽く額を弾く。

「でも、次は研究所まで迎えに行くよ。心配だし…」
「大丈夫よ。もう乗り間違えたりしないもの。次は遅れたりしないわ」
「そうじゃなくて……」

 自信たっぷりに告げるフランソワーズに、ジョーは小さく溜息を零し、「分かって無いなぁ〜」と独り語ちる。

 自分が声もかけずに彼女の腕を捕らえた本当の理由を、フランソワーズはやはり全く気付いていない。
 辺りを不安げにきょろきょろと見回す彼女を、獲物として邪な爪で狩ろうとしていた男達のことを…。

「ジョー…?」

 険しい表情で押し黙ってしまった彼を、フランソワーズは幼い少女のような穢れの無い澄んだ瞳で見つめる。
 悪しきものを浄化する清浄なその瞳に囚われ、ジョーはふ、と表情を和らげると、するりと自然に…躊躇うこと無く彼女の手を取る。

「何でも無いよ。行こう」
「…ええ」

 何も知らない彼女を、萎縮させるような言葉は言いたく無い。
 彼女にこれ以上の枷は与えたくない。
 自分が彼女を護る鎧になれば良いのだから…。

 同じ速度で歩いているのに、微妙に異なる歩幅。
 繋ぎ合った手と手が、うねり来る人の波で2人が離れてしまう事を防ぐ。

 ジョーから半歩下がって引かれるように歩くフランソワーズは、そっとビルとビルの狭間の細長い空を見上げる。
 今朝まで厚く立ち込めていた鉛色の雲はもう無く、かわりに真っ青な空に綿菓子みたいなふわふわとした白い雲が浮かんでいた。

(あつい……)

 身体が熱く火照るのは、夏の陽射しの所為だけじゃない。
 ……彼が傍に居るから。
 触れているから。

「あ、そうだ。車に戻る前に買い物したいんだけど、良いかな?」

 本当はしっかりと計画していたにも関わらず、今正に気付いたような口振りで、ジョーは寄り道の許可を彼女に願い出る。

「良いけど…何を買うの?」
「君の靴」
「私の?」

 さらりと告げられた買い物の目的。
 彼が何故突然そんなことを言い出したのか理解出来ず、フランソワーズは目を丸くする。

 ジョーは彼女の履いているサンダルを、ちらっと見、満足そうに微笑む。
 自分がプレゼントしたものを彼女が身に付けてくれることが、とても嬉しかった。
 彼女がいつも自分と共に在るようで…。

 だから……

「今度は雨でも履ける靴を、ね」



Fin


†† 雑踏 ―雑踏 vol.1― ††





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祐浬 2003/7/5