「引っ張らず、上に反らすようにして…」
「こう、ですか?」

 "初めて"の経験に明らかに戸惑い、不安げに瞳を揺らしながら、それでもフランソワーズはレクチャー通りに大きく熟れた果実を両手で包み込むようにし、そっと持ち上げる。

「上手上手。そのまま、そう、ゆっくり優しく…」
「……あ」

 手に感じた"異変"に、フランソワーズは大きな瞳をますます大きく見開き―――、それが目的を達成できた結果だと気づくと、碧い瞳をぱぁっと輝かせ、みるみる笑顔になった。
 そして、嬉しさいっぱいの無邪気な笑顔をすぐに自分へと向け、手の中に落ちた……片手では余るほどの大きな果実――『梨』を宝物のように翳す。

「ジョー、見て見て!」
「うん」

 生い茂る梨の葉の隙間から零れる陽の光よりも眩しいフランソワーズの笑顔に、ジョーは内心ドキドキしつつ、けれど他人の目があるため平静を装って穏やかな笑顔を返す。

「本当に簡単に採れるんですね。あ、どういうのを選んだら良いですか?」
「こういう青いのはまだ早いね。この子のように、茶色で色が濃いのが甘くて美味しいよ」
「これより大きいものもあります?」
「あるある。よ〜く探してごらん」

 真剣な表情で少し興奮気味に質問するフランソワーズに、この果樹園の持ち主である小柄なおばあさんはにこにこと楽しそうに答える。

 ―――9月某日(月曜日)。
 ここ『くすのき果樹園』は、主要道路からも他の観光果樹園からも少し外れた場所にある。
 大きな看板が立っているわけでもなく、バスが乗り入れられる大きな駐車場もない果樹園なのだが、"飛び抜けて甘い梨が実る"と、知る人ぞ知る有名な梨園であり…――、そんな"穴場"の梨園をジョーとフランソワーズが知ったのは、1週間前。情報提供元は、コズミ博士だった。






 ―――1週間前。

「あの、ね……、今日、コズミ博士のお見舞いに行ってきたんだけど…」

 ついさっき研究所に帰宅し――部屋に荷物を置き、着替えを済ませてダイニング降りてきたジョーに、フランソワーズは言い難そうに切り出す。

「あ、具合はどうだった?」

 彼女の手作りの…、自分の好物ばかり並ぶ食卓と、彼女の可愛らしいエプロン姿に顔を綻ばせたジョーは、彼女の言葉に表情を改め、尋ねる。

 ギルモア博士の友人であるコズミ博士が、庭弄り中に腰を痛め寝込んでいると聞いたのは、昨日、仕事先(サーキット)でだった。
 生憎、ギルモア博士がイワンを連れてドイツに出張中(?)だったため、日本に残っているフランソワーズが慌ててお見舞い兼看病に向かったのだ。

「怪我自体は大したことはなかったみたい。私が行ったときには、もう1人で歩いてらしたし…。お手伝いさんもいるから、心配いらないって」
「そう、良かった…」

 彼女からコズミ博士の容態を聞いて、ジョーはほっと安堵する。
 コズミ博士は、BGから脱走し、行き場のない自分たちを匿ってくれた恩人だ。新たに建てたこの研究所と、コズミ博士の屋敷とは距離があり、頻繁に行き来することは難しいが……。それでも時折(ギルモア博士は頻繁に)彼女とともに訪れ、のんびりとした時間を過ごしていた。

「でも、暫くは外出は難しいんですって。それで……、ひとつ、お願いというか…、お使いを頼まれたんだけど…」
「お使い?」

 言葉を選びながら、どこか恥ずかしそうに言葉を繋ぐフランソワーズに、ジョーは眉を顰めつつ優しく先を促す。

「それが……、ええと……、ジョーは、梨狩りってしたこと、ある?」
「梨狩り? まぁ…、ある、けど……???」

 突然話が飛んだことに戸惑うも、ジョーは正直に答える。
 梨狩りやぶどう狩りは、かなり昔――孤児院で育てられていた幼い頃、何度か連れて行ってもらったことがあった。

 ジョーの返事を聞き、フランソワーズは幾分表情を和らげると、ソファーに置いておいた鞄の中からコズミ博士により託された一枚の葉書を取り出し、おずおずと彼へと差し出す。

「これ、なの」
「……え?」

 ジョーは差し出された葉書を手に取ると、文面に目を通す。
 コズミ博士宛てのその葉書は、梨狩りの案内状で、梨狩りができる時期と地図が印刷されている。そして、『今年も美味しい梨が実ったので、ぜひいらしてください』と丁寧な手書きの文字が添えられていた。

「コズミ博士が毎年行っている梨園なんですって。でも、怪我で今年は行けそうもないから、できたら代わりに行ってほしいって…」
「なんだ、そんなこと、か……」

 ジョーは、くす、と笑む。

 葉書の送り主『くすのき果樹園』の所在地は、高速道路を使えば日帰りも可能だが、かなりの距離がある。
 まして、梨狩りの経験のないフランソワーズにとっては、1人で出かけるのは少し心細いのだろう。

「一緒に、行ってくれるの?」
「もちろん」
「お仕事、忙しいんじゃ?」

 拍子抜けするくらい簡単に承諾するジョーを、フランソワーズは心配そうに見上げる。

 F1レーサーであるジョーは、連戦となるこの時期、普段にも増して忙しく、今日の帰宅も2週間ぶりだった。しかも、まったくのオフ(休暇)というワケではなく、日本でもかなりの仕事をこなさなければならないと話していたのを覚えている。
 彼に梨狩りに行く余裕があるかどうかもわからなかったが、仮にそんな時間があるとしても、少しでも彼を休ませてあげなければならないことも充分にわかっていた。
 けれど、コズミ博士の、『あそこに行くと不思議と癒されるんじゃ。たまには2人でのんびり楽しんできなさい』という言葉に後押しされて…、彼の癒しになればと思い、言ってはいけない我が儘(梨狩り)を思い切って口にしてみたのだ。

「キミだって、忙しいだろう? 大丈夫?」
「私は、今はレッスンだけだから…」

 フランソワーズはそう答えながら、アイスティーをグラスに注ぎ、定位置に着く(椅子に座る)彼の前へ、ことり、と置く。

 今や誰もが知っているF1レーサーのジョー。
 BGに捕えられ消息不明となった彼を、彼のチームスタッフは信じ、帰りを待っていてくれた。だからこそ、ジョーは並々ならぬ決意でレースに挑み、彼らへの恩をしっかりと結果で返していた。
 "009"としての任務もあるため、彼のスケジュールはかなりハードであるのに、文句も弱音も吐かず、直向きに…、それでいて生き生きと楽しそうにレーサーとしての仕事をこなす彼に即発され、フランソワーズもバレエに還ることを決意した。
 初めは、ただ踊れれば良いと思っていた。舞台に立つことはなくとも、好きなバレエを踊っていられればそれだけで幸せだった。
 だが、偶然に出会った1人の女性が、フランソワーズの運命を少しずつ変え始めていた。
 大きな舞台にプロのプリマドンナとして立つ――徐々に…、けれども確実に現実味を帯び始めているその目標に向けて、フランソワーズはレッスンに明け暮れる毎日を送っていた。
 でも、今はまだ演目すら決まっていない状態であり、レッスンは個人的な…、基礎レッスンが多いので、彼とは違い、時間の融通は利く。

「そう。なら……」

 ジョーはそこで言葉を切ると、悪戯を思いついたような、妖しくも楽しげな表情でフランソワーズに視線を固定する。

「1週間後……、今度の日曜日と、月曜日は空いてる?」
「日曜日と月曜日? 空いてる、けど……」

 意味ありげな彼の視線に戸惑い、どきどきしながら、フランソワーズは彼の正面(自分)の席に座る。

「次の月曜日は完全オフなんだ。だから、その日に梨狩りに行こう。あの辺は何度か行ったことがあるから、いろいろ案内してあげられると思うし…、それに、ちょっと距離はあるけど、この先に一度キミを連れて行きたいと思っていた旅館があるんだ」
「旅館って……、泊まるの?」
「嫌、かい?」

 ぽっと頬を赤く染めながら不安そうに尋ねる彼女に、ジョーはワザと問い返す。

 彼女と心も躯もひとつに融け合わせる仲になって、まだそれほど経っていない。
 まだまだ初心な彼女が、"泊まる"という言葉に過剰な反応を示すとわかっているからこそ…、彼女のそんな可愛らしい反応が見たくて、ちょっと意地悪をしたくなってしまう。

「嫌じゃ、ない、けど……。で、でも…、日曜日はお仕事なんでしょう?」
「うん。でも、この梨園、仕事先から帰る途中にあるんだ。だから、一度ここに戻るより、その旅館に泊まった方が都合が良いんだよね。それに、日曜日の仕事にはキミを連れて行きたいって思っていたし、ね」

 ジョーは葉書をフランソワーズに返すと、「いただきます」と告げ、彼女の手料理に手を付ける。

「私を?」
「これ、すごく美味しい、よ」
「え?、あ、本当?」
「うん。前にも言ったけど、コレ、好きだな」
「気に入ってもらえて良かったわ」

 質問の答えではなく、料理の感想だけが返ってきたことに戸惑いながらも、美味しいと言ってもらえたことが嬉しくて、フランソワーズは顔を綻ばせる。
 彼が頬張る『煮込みハンバーグ』は、亡くなった母が書き残してくれたレシピを元に、彼好みにアレンジしたものだ。アレンジしているとはいえ、母の味を「美味しい」と褒めてもらえるのは、とても嬉しかった。

「作るの、大変だっただろう?」
「ううん。お料理するのは、好きだから…」
「花火も、好きだったよね?」
「花火? え???」

 ころころと変わる話題についていけず、きょとんとする彼女に、ジョーはくす、と笑むと、アイスティーを一口飲んでから種明かしする。

「日曜日、MOTEGIで花火大会が開催されるんだ。で、僕の仕事は、そこにシークレットゲストととして参加すること」
「シークレット、ゲスト?」
「うん。花火が打ち上げられる前…、昼間にね、いろいろなイベントが行われるんだ。で、ドライバーやライダーたちのデモ走行や、トークショーもあって、ね」
「トークショーって…、ジョーも出るの?」

 人前で話すのが頗る苦手な自分を気遣ってくれる彼女に、ジョーは苦く笑う。

「質問に答える、くらいかな……。でも、拘束時間は短いし、花火が打ち上げられる時間はフリーだから、一緒に観れるよ」
「でも、お客さんが大勢来るんでしょう? そんなところにジョーが行ったら…」
「僕が参加することを知っているのは、大会関係者のほんの一部の人間だけだから、僕目当て、な人は来ていないし…。それに、花火を観るのはパドックにあるコントロールタワー内で、一般の人もマスコミも入れないから、大丈夫だよ」

 フランソワーズの心配を、ジョーは穏やかに払拭する。

 彼女が不安を抱くのは、無理のないこと、だった。
 F1に復帰して以降、なぜか日増しにパパラッチ(マスコミ)の数が増え、取材方法も過激になっていた。
 今回のグランプリでも、予選中に取材規制が敷かれている場所にまでパパラッチの1人が入り込み、永久追放(出入り禁止)処分になるという騒ぎが起こった。
 過激になっているのはパパラッチばかりじゃない。グランプリごとに明らかに増えている…、モータースポーツ観戦には不釣り合いな女性客の中には、チームスタッフを装って宿泊しているホテルに入ろうとする者や、プレゼントの中に盗聴器を仕込んだり、結婚届を送ってくる者まで現れ…、つい先日には、某国のある女優が「私はジョーの彼女」と言い出して、大変な騒動になった。
(あまりの騒ぎ(バッシング)に驚いた彼女(女優)が、すぐに「ジョーの彼女になりたい」と言っただけ」と訂正したが…)

 以前(BGに囚われる前)も、確かにそれなりに騒がれてはいた…が、ここまで酷くはなく、なぜ今こんなことになっているのか、ジョー自身が一番疑問だった。
(ジェット曰く、突然行方不明になったことがFan心理を煽る(今、観に行かなければ、また会えなくなるかも)ためと、フランソワーズと出逢って、ジョーに近寄りがたい冷たさが減り、"甘さ(優しさ)"が出たため、らしい……(笑))

「本当に……一緒に行っても、イイの? 私、邪魔になったりしない?」

 彼の説明を聞き、随分不安は拭えたものの、突然のデートの誘いに戸惑いは晴れず、フランソワーズは恐る恐る訊く。

「邪魔なはずないだろ。僕は…、キミと、ずっと一緒にいられるから………………嬉しい、よ///」
「ジョー……///」

 視線を逸らし、仄かに頬を染めながら、聞き取れるか聞き取れないかの小さな呟き(本音)に、フランソワーズも、ぽっと頬を薔薇色に染める。

「キミは? 嬉しくはない?」
「そんなっ 私だって、ジョーと一緒の方が…………嬉しい、わ///」
「なら」

 羞恥を堪え懸命に本音を返してくれる彼女へ、ジョーは再び視線を向け、そして絡め合わせると、ふ、と優しくて甘い…、フランソワーズだけが知っている笑みを零す。

「一緒に行ってくれるよね?」

 女性なら誰もが一目で魅了されてしまうその微笑と、優しくもちょっと強引な誘惑に、フランソワーズはますます頬を赤くし、恥ずかしそうに微笑みながら、「ええ」と頷いた。






「ねぇ、ジョー、どれくらい採ったら良いかしら?」
「明後日には博士たちも帰ってくるし、もっとあっても良いと思うよ」

 果樹園の一角―――入口からかなり入った場所に、おばあさんから借りたゴザを広げ、そこに座ってのんびりとくつろいでいたジョーは、大きな梨を両手に抱え戻ってきたフランソワーズにそう答える。
 傍らにある籠の中には、彼女が収穫した美味しそうな梨が10個ほど並んでいた。

「ジョー、もっと食べる? 食べるなら剥いてあげるけど…」
「もうお腹いっぱいだよ」

 彼女の申し出を、ジョーは小さく苦笑しつつ断る。

 生まれて初めて彼女が採った梨。彼女はすぐにそれを慣れた手つきで剥き、食べやすい大きさにカットしてくれた。
 コズミ博士のお墨付きだけあって、今まで食べたどんな梨より瑞々しく甘くて美味しかったが、如何せん1個の大きさが半端じゃなく大きく、2人で2個も食べれば満腹だった。

「それじゃ、ジョーも梨狩り、する?」

 フランソワーズは、最初に1個採ったきり、ずっと座ったままの彼を不安げに見つめ、誘う。

「いや、遠慮しておく」
「どうして? 楽しくない?」
「楽しい、けど……。ここを移動するの、かなりキツイんだよね」

 ジョーは肩を竦めながら、正直に答える。

 梨の棚は、収穫しやすいよう低く……フランソワーズでさえ真っ直ぐに立てないほど低く組まれていて、背の高いジョーが移動するには、かなり屈まなければならなかった。

「ここで1日収穫を手伝うのは、1レース走り切るより過酷かも……」
「まぁ、ジョーったら…」

 溜息混じりの彼の言葉に、フランソワーズは、くすくすと笑む。

 彼の言葉が半分は本当で、半分が自分を思っての嘘であるのは明白だった。初体験(梨狩り)を楽しんでいる自分に、1つでも梨を多く採らせてあげようという、彼の不器用な優しさ。

「僕はここで、この子たちを守っているから、キミは連れて帰る子を選んでおいでよ」
「わかったわ。しっかり面倒見ててね」

 おばあさんを真似て梨を擬人化させ、悪戯っぽく微笑むジョーに、フランソワーズも合わせて答えると、再びお目当ての子を探しに梨園の奥へと進んだ。

(楽しそうで、良かった……)

 真剣な瞳でひとつひとつの梨を吟味し、探しているフランソワーズを見守りながら、ジョーは改めて"来て良かった"と思う。
 BGに拉致され、009として目覚めてから、ずっと傍に彼女が居た。だが、BGとの命を懸けた戦いに一応のピリオドが打たれ、人間(ひと)としての時間を取り戻し、一度は諦めた夢(F1レーサー)に還ってからは、皮肉にも彼女との時間は減る一方だった。
 だからこそ――気がついた。
 彼女との時間がどんなに大切で、かけがえのないものであるのか、を。
 まして、戦いではなく、こうした平穏の中でともに在れることは、奇跡と言っても過言じゃないほどの貴重な時間だ。

(もう……、何も起こらないといいけど…)

 彼女が真紅の戦闘服に身を包む日など、二度と来なければいい。
 だが、その祈りは絶対に届きはしない。

(ならば、せめて……この時間が、少しでも長く……)

 ジョーは一度目を伏せると、彼女から視線を外し、空へ――青々と茂った梨の木の向こう側に広がる澄んだ空を見上げ、目を細める。
 夏の名残が色濃く残る空。でも、そよぐ風には秋の気配が混じり、この木漏れ日の下はとても心地良かった。

(ここは………、静か、だ)

 耳を澄ましても、風の音と、彼女が踏む枯葉の音しか聞こえない。
 ここだけ時間がゆっくり流れているような気さえする。

(一番安全な場所、なのかも…)

 仕事で何かと周囲が騒がしくなっているため、人目のある場所へ出かけるには気を遣わねばならなかったが、この梨園にいるのは、自分たちともう一組のカップルだけ、だ。

 ジョーは、ちらりと彼らの様子を伺う。

 自分たちよりやや遅れて梨狩りに来た彼らは、最初こそ「もしかして、島村ジョーじゃない?」と疑ったものの、「まさか、こんなトコロにいるはずないだろ」「そうだね」と自己完結し、今は自分たちから50メートル以上離れた場所で、2人だけの世界――彼女が危なっかしい手つきで梨を剥き、不格好な欠片を、あーんと彼氏に食べさせている。

(警戒は要らない、かな……)

 この穏やかな時間を脅かすものは…、フランソワーズに危害を加えるようなものは、ここにはない。
 ジョーはそう判断すると、う〜ん、と大きく伸びをし、甘く香る風をいっぱいに吸い込んだ。

 梨狩り、だなんて、彼女に誘われなければ絶対に来なかっただろう。
 そして、それは花火大会も、だ。
 心の奥底にこびりついている幼い記憶は、ほとんどが苦く、梨狩りも花火大会も『楽しかった』思い出ではない。
 苦手なはずの場所。それを彼女は簡単に…、次々に、色鮮やかな大切な思い出に塗り替えてしまう。

(ずっと……彼女と居られたら……)

 F1レーサーを辞めれば、また以前のように彼女とずっと一緒に居られるようになる。
 だが、彼女はそれを望まないだろう。
 自分が夢に還ることを後押しし、今の活躍を一番喜んでくれているのは、フランソワーズだ。
 シーズン途中での復帰のため、今年はワールドチャンピオンを獲得するのは難しいが、来年は彼女のためにも狙いたい。そして、いつか……、彼女を堂々と……、自分の大切な女性(ひと)としてパドックに招待し、表彰台の真ん中に上がる姿を見てほしい。

(そのためにも、頑張らないと……)

 ジョーは今週末に開催されるレースに思いを馳せ、決意する。
 と、ぼんやり眺めていた視界が、急に遮られた。

「どうかしたの?」
「っ/// いや、なんでもないよ…」

 いきなり間近に映った心配そうな碧い瞳から、ジョーは慌てて目を逸らす。

「嘘。ジョー、疲れているんでしょう? ずっとお仕事で……、貴重なお休みも、こうして私に付き合ってくれて……」

 フランソワーズは申し訳なさそうに告げ、連れて(採って)きた2つの梨を、そっと籠の中に入れる。

「確かに、疲れていないと言ったら嘘になるけど、でも……、楽しいし、良いリフレッシュになっているよ」
「本当に?」
「本当に」
「なら、……今、何を考えていたの?」

 自分の言葉をオウム返しして微笑むジョーに、フランソワーズは幾分ほっとしたものの、さっきのどこか思いつめたような彼の瞳が気になり、おずおずと問う。

「今? …………良いなぁ、って思ってただけだよ」
「え…?」

 ぽつりと呟いた彼の本音に、フランソワーズは彼が見ていた方向を、ちらり、と見、そして、ほんのりと頬を染める。
 そして、少しだけ躊躇った後、ヒールのないサンダルを脱いでゴザに上がり、彼と僅かな距離を開けて、足を流すように座った。

「フランソワーズ?」

 突然梨狩りを止め、しかも自分と距離を取って座った彼女に驚き、ジョーは覗き込むようにして様子を伺う。
 すると、ほんのり染まっていた頬が、鮮やかな紅となり……

「ジョーが……したい、の、なら……、…………膝、貸してあげる」
「え?」

 視線を逸らしたまま、消え入りそうな声で囁かれた言葉に、ジョーは目を瞠り……、彼女が一瞬見遣った先を視界の端で捉え、納得すると、ふ、と破顔する。
 彼女が見たのは、彼氏を膝枕してあげている彼女の――ラブラブモード全開のカップルの姿。
 つまりは、自分の『こういうのんびりした時間も"良いなぁ"』という意味の言葉を、フランソワーズは誤解したのだろう。

 だが…―――
 折角の彼女の申し出を断るなんてもったいないことができるはずもなく……

「…………良いの?」
「ええ//////」
「それじゃ……」

 ジョーはゆっくり身体を傾け、彼女の膝に頭を乗せる。

 寝転がって見上げた景色は、さっきまでと大して変わらないはずなのに、ずっと広く、眩しく見えて、ジョーは片手でゆらゆら揺れる木漏れ日を遮る。

「疲れているなら、少し寝る?」

 太腿に色濃く感じる彼の重みと温もりとくすぐったさ、そして、彼を見下ろすという珍しいシチュエーションにどきまぎしながら、フランソワーズは彼を見つめる。
 すると、ジョーは翳していた手を伸ばし、彼女の肩を……洋服の隙間から微かに覗く昨夜自分が刻んだ痕を指先でなぞる。

「疲れているのは、キミも、だろ?」
「っ/////// わ、私は、……ここに来る途中に、少し眠れた、し……」

 フランソワーズは、びく、と身体を震わせ、慌てて彼が触れた場所を隠す。
 そんな彼女の反応が、触れ合っているところからダイレクトに伝わって来、ジョーは意地悪な笑みを深める。

「なら、お言葉に甘えて、15分だけ」
「時間なんて気にしないでいいのに……」
「そうはいかないよ。この後、キミを連れて行きたいトコロもあるしね」
「え?」
「ここから少し行ったところに自然公園があって、大きな花畑があるんだ。食後の散歩にどうかな?」
「素敵、だけど……、ジョー、疲れているんでしょ? そんな無理しなくても…」

 彼の提案が自分を思ってのことであり、当然魅力的な誘いであったが、彼の更なる負担になるのでは、と、フランソワーズは危惧する。
 が、ジョーの笑顔は崩れることはなく……

「こうして充電してるから、大丈夫」
「15分で充電できるの?」
「足りない分は、今夜に、またたっぷり充電させてもらうよ」
「え……? ………………あ…/////////」

 彼の赤茶色の瞳の奥に揺らめく熱っぽさで、その言葉の意味を悟ったフランソワーズは、真っ赤になりながら、「もうっ」と唇を尖らせる。

「疲れてる人は、大人しく休んでください」
「はいはい」

 恥ずかしさを隠すため命令口調を使うフランソワーズに、ジョーはおちゃらけた返事をし、一呼吸後、2人は視線を絡ませ微笑み合う。

「ねぇ、ジョー……、ひとつだけ訊いてイイ?」
「何だい?」
「もしかして、昨日のイベントに参加を決めたのは、私のため?」

 ずっと気になりながらも言えずにいた疑問を、フランソワーズはこの特別な時間と空間に後押しされて口にする。

 昨日のイベントに、シークレットゲストとして参加したジョー。
 彼の仕事は、F1マシンではなく、最新のスポーツカーに乗ってサーキットを一周し、メインスタンドの前で車を停め、そこで初めて素性を明かし、インタビュアーの質問に少し答えるというもの。
 サーキットをスポーツカーで駆けるのは楽しそうだったけれど、インタビュー時の彼は表情も口調も終始硬く、ヒートアップする客席とは対照的に、お世辞にも楽しそうには見えなかった。
 それでも……、彼の気持ちとは関係なく、イベントは大いに盛り上がり、客(特に女性客)はもちろん、イベント主催者もとても喜んでいた。
 そんな関係者の人たちが、花火が打ち上がる前、嬉しそうに囁き合っているのを偶然聞いてしまったのだ。ジョーへのオファーは、最初は断られていたのに、急遽承諾された……参加してくれることになった、と。

 人前で話すのが頗る苦手で、その手の仕事の大半を断っている彼が、昨日の仕事を―― 一度は断った仕事を、なぜ請けたのか疑問だった。

 考えられるのは……大きな圧力があったか、自分に花火を観せるため。

 だが、沈黙の後、彼から零れ落ちた言葉は、そのどちらでもなく……

「…………僕のため、だよ」
「え…? ジョーの?」

 何処か途方に暮れたようなジョーの呟きを…、その言葉の先を、フランソワーズは躊躇いつつ促す。

「疲れている所為、かな……、この頃、ふと考えるんだ。どれが……本当の、僕なんだろうって…」

 普段なら口にしない弱音。
 心の奥底に漂う闇を、こうして零してしまったのは、"膝枕"という状況だからだろうか。

 F1レーサーに復帰したことを、後悔はしていない。夢だった仕事だから、どんなに忙しいを思いをしようが苦ではない。
 けれど、絶対に隠さなければならない秘密がある以上、嘘は必要不可欠だった(特に、突然の失踪の原因を黙っているわけにはいかず、『事故で一時的に記憶を失くしていた』ことになっている)。
 嘘は嘘を呼び、やがて、尾鰭を伴って一人歩きを始める。マスコミが報じる自分は、大半が事実無根のでっちあげ、だ。彼らが今欲しているのは、華々しくF1デビューしながら不運に見舞われ、けれども不死鳥のように舞い戻ってきた悲劇のヒーロー像であり、"美談"だ。
 彼らが報じる"島村ジョー"は、自分とは既に大きくかけ離れてしまっている。

 最高のサイボーグと呼ばれる"009"も、本当の自分じゃない。

 ならば…―――
 本物の"自分"は何処に居るんだろうか?

「…ごめん。こんなこと、キミに聞かせるつもりはなかったのに……。カッコ悪い、な」
「そんなこと…」

 フランソワーズは首を横に振る。

 格好悪いだなんて、少しも思わなかった。寧ろ、こうして弱いところを…、愚痴を零してくれたことが嬉しかった。

「だから、リフレッシュしたくて……、レーサー以外の仕事を…、花火大会の仕事を請けたの?」
「うん…」
「ジョー、そんなに花火が好きなの?」

 戸惑いを含んだフランソワーズの問いを、ジョーは「いや」と否定し、照れたように…、それでいて嬉しそうに微笑み、目を細める。

「僕が見たかったのは……キミ、だよ」
「え?」
「キミの喜ぶ顔が、見たかったんだ…」

 ジョーは独り言のようにそう零すと、細めた目をそのまま……、睡魔に誘われるがまま閉ざす。

 夢闇に包まれても残る、空と彼女の瞳の"青"。

「それで………、僕は、…元気になれる、から……」

 本当の自分で在れる、から… ―――

「…………ジョー…///////」

 ふわり、と優しい風とともに、細い指が、癖のある栗色の髪を揺らす。
 その心地良さに身を委ね、ジョーはゆっくりと微睡みへと堕ちていった。





Fin






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祐浬 2012/10/25