ふと感じた―――何か。

 危機感ではない。
 違和感……とも少し違う。

 ただ、何故だか無性に、居心地が悪かった。




―――


Story by Yuuri





 一度感じてしまった『正体不明の何か(居心地の悪さ)』をそのまま見過ごすこともできず、ジョーは小さく視線を上げる。

 淡いパープルブラックのサングラス越しに見えたのは、先刻と何も変らない景色――木をふんだんに使ったあたたかみのある店内、淡い光が零れるアンティーク調の照明、そして、各テーブルに座り食事やお茶を楽しんでいる客の姿だった。

 店内に流れる優しい音楽(BGM)。
 漂う、香ばしくてほろ苦い珈琲の香り。

 自分がこの席に着いた時と、何も変わらない。
 変わったことと言えば……自分が店に入った時には半分ほど空席だったのが、いつの間にかほぼ埋まっていることぐらいだった。
 しかし、その中に知っている顔は無い。

(…………何だ?)

 居心地の悪さの原因を見つけられないまま、ジョーはちらり、と出入り口へと視線を巡らせ、そこに待ち人の姿が未だ無い事を確認すると、小さく溜息を吐き、イマイチ釈然としない想いを抱いたまま、再び持ち込んだ(此処に訪れる前に買った)雑誌に目を落とした。

 喫茶店『cloche(クローシュ)』
 フランソワーズが通うバレエ教室の程近い場所にある、落ち着いた雰囲気の喫茶店だった。
 とは言え、大きな通りから外れた一方通行の狭い道に面していて、周りに目立った店舗もなく、更に、一見すると普通の民家にしか思えない隠れ家的な店で、ジョーがこの店の存在に気付いたのもごく最近――いつも通る(フランソワーズを迎えに行く)道が工事中で通行止めになっていた為、仕方なく迂回した時に偶然に見つけたのだ。

 彼女と少しでも長く一緒にいたいから…、そして彼女のことが心配だから…、研究所に戻っている時(手があいている時)には、ジョーは出来る限り彼女の送り迎えをするようにしていた。
 とは言え……
 F1レーサーとして世界各国を回っているジョーが、同じく人気プリマドンナとして世界各国の舞台に立っているフランソワーズの送り迎えをする機会(チャンス)は、実際にはそう多くは無い。


 フランソワーズは、「疲れているのに…」、「ジョーの時間を潰してしまうなんて…」といつも申し訳なさそうにしているが、ジョーは迷惑に感じたことも無いし、面倒にも思えなかった。
 逆に、ほんの少しでも彼女の役に立てることが、ジョーには嬉しかったし、彼女にとって自分が"特別"である証拠のような気がしていて……その『役目』を放棄する気も、況してや誰かに譲る気にもなれなかった。

 今日の彼女のレッスンは午前中。
 ジョーはいつも通り、バレエ教室の近くまで彼女を愛車で送った。
(本当なら、バレエ教室の前まで送ってあげたいのだが、彼女との関係が秘密である以上――自分が『F1レーサーの島村ジョー』だと気付かれるワケにはいかないので、余程の事情が無い限り教室の前までは行かないようしていた)

 そして、いつも通り、一度研究所に戻るつもりだったのだが、途中で博士から、「頼んでいた本が届いたと連絡があってのぅ。すまんが帰りに取りに行ってはくれんか…」と携帯に連絡が入り、そのまま博士ご用達の本屋へ向かったのだ。
 博士が頼んでいた本を引き取るついでに、自分が愛読している車関連の雑誌も数冊購入し―――、研究所に戻ってもどうせ直ぐに彼女を迎えに出るようだから…と、彼女のレッスンが終わるのを"偶然見つけた喫茶店=cloche(クローシュ)"で、買った雑誌を読みながら待つことにした。

「……? ……っ」

 2ページほど雑誌を捲ったところで、ポケットの中の何かが振動し出し、ジョーはそれが携帯電話であることに気付くと、慌てて取り出す。

 携帯電話の画面に表示されていたのは、メールの受信を報せるマーク。
 送信者はもちろん―――フランソワーズ、だった。

 喫茶店に着いて直ぐ、フランソワーズの携帯に、cloche(クローシュ)で待っていることと、この店の場所をメールで報せておいたのだ。
 彼女からこうして返事が送られて来たということは、レッスンが終わったのだろう。

 メールを開く。


 ―――――――――――――
 xx/07/07 11:35
 レッスン終わりました。
 ―――――――――――――
 驚いたわ。
 急いで支度して、向かいます。
        - END -
 ―――――――――――――


 短い……でも彼女らしい文面に、ジョーはふっと表情を和ませると、直ぐに返信のメールを打つ。

 
 ―――――――――――――
 了解
 ―――――――――――――
 慌てないでいいよ。
 ところで、この喫茶店、大丈夫か
 い?
 ―――――――――――――


 心配なのは、この喫茶店が、彼女が通うバレエ教室の人達の溜まり場であるか否か、ということ。
 レッスンが終わった彼女の知り合い達が集団でココに押し寄せる、のであれば、当然ココで彼女と落ち合うのはマズイ。
 それに、フランソワーズの所属するバレエ劇団『Eternal Memory』の事実上の経営者であり、彼女のマネージャーを勤め…、自分とも何度か面識の在る由美と"鉢合わせ"となるような事態は避けたかった。

 店に入ってからずっとサングラスを外さないのも、彼女の知り合いの人達とのニアミスに備えてだった。

 直ぐにフランソワーズからメールが返って来る。


 ―――――――――――――
 xx/07/07 11:38
 大丈夫だと思うわ。
 ―――――――――――――
 皆、そんなところにお店があるこ
 と知らないんじゃないかしら。
        - END -
 ―――――――――――――


 彼女のメール(返事)を見、ジョーはほっと胸を撫で下ろす。
 だが、直ぐに表情を改め……真剣な顔となる。

(……こんなこと、いつまで続けなければならないんだろうか)

 いつになったら、堂々と彼女と街を歩けるようになるだろうか。
 彼女が自分にとって大切な存在であると…、自分だけのものであると、宣言できるだろうか。

(焦っても仕方が無い、けど……)

 いつまでもこんな状態を続けるつもりは、ジョーにはない。
 けれど、彼女との関係をオープンにする為には、クリアしなければならない課題が山のようにあり、今直ぐ、というわけにはいかない。
 この状態で自分達の関係が世間に露見すれば、一番被害を被るのは…、傷付くのは――彼女自身だ。
 それだけは、絶対に避けなければならない。

(ごめん、フランソワーズ…)

 自分がF1レーサーではなかったら…、
 F1レーサーとして復帰しなかったら…、
 自分達の前に立ちはだかる障害は、もっと少なかった筈だ。

 F1レーサーになることは、夢、だった。
 けれど、その夢さえも――その夢よりも、フランソワーズの方が大切に決まっている。
 だから……彼女の為になら、F1レーサーという夢を捨てても構わない。
 だが、彼女はそんなことを望んではいない。
 そんなことをしたら、彼女は怒り、悲しむだろう。そして、全ては自分の責任だと己を責め、自分だけが夢を追うことは許されないと考えるだろう。
 そんなことになるのは、絶対に嫌だ。

 彼女を…、
 彼女が抱く大切な夢ごと…、守ってあげたい。

 そう願うからこそ、今は自分達の関係を秘めなければならない――。

 改めて、ジョーは自分が選ぶべき道が1つであり、それが茨に満ちた脆い道である事を再認識する。
 と同時に、その道を迷わず歩んでいくことを、密かに強く誓った。

(とは言え……何だろう?)

 ジョーは一向に消えることが無い……寧ろ段々と強くなる"居心地の悪さ"に眉を顰め、不自然とならないよう注意しながら、辺りの様子を伺う。

 お昼近くになってきた為、ランチを注文している客が多いらしく、店の中央に設けられたサラダバー&スープバーのテーブルが賑わっていて、ジョーが座るテーブルの傍も、2人の女性客が小皿を手に談笑しながら横切って行く。

(もうお昼だし……このままフランソワーズとココでランチしていってもイイかな…)

 結局、居心地の悪さが何であるのか把握出来ず、不可思議さに首を傾げながら、ジョーはぼんやりとそう考える。
 頼んだ珈琲は本格的なもので、かなり美味しかった。
 珈琲にもあれだけの手間をかけているのだから、料理も悪くは無いだろう。

 ジョーは大人しくフランソワーズの到着を待つことにし、開かれたままの雑誌の続きを辿り始めた。





 雑誌に没頭していても、彼女が店に入って来た事は即座に分かった。
 何故なら……"いつもそうだから"
 彼女が現れただけで、辺りがぱぁっと華やいだ雰囲気になり、彼女に目を奪われた人――男性ばかりではなく同性である女性までもが、息を飲み、見惚れ、一瞬静まり返る。
 今も、同様の……珍しくも分かりやすい現象が起こった為、ジョーは確信を抱いて顔を上げた。

 店内を見渡せる位置で立ち止まり、不安そうに周囲を見回すフランソワーズ。
 だが、直ぐに互いの視線が合うと、ジョーは小さく片手を上げて合図を送り、フランソワーズはそれに答えるように笑顔になる。

「ごめんなさい。待たせてしまって…」

 真っ直ぐにジョーの元へ歩み寄って来たフランソワーズは、申し訳なさそうにそう告げながら、彼と向かい合うように座る。
(その途端、周囲から残念そうな溜息と、「やっぱり」という微妙な空気が流れたのだが、2人がソレに気付くことはなかった;;;)

「いや、僕が勝手に待っていただけだよ」
「どうして、研究所に戻らなかったの?」
「帰る途中で博士に買い物を頼まれて、ね。時間が中途半端になったから…」
「そうだったの」

 フランソワーズは、突然彼が予定変更したその訳を理解すると、「でも、ホントに驚いたわ」とちょっと拗ねた口調で、微笑む。
 そして、お冷とおしぼりを運んできた店員に、少しだけ迷ってからアイスティーを注文した。

「こんなトコロに、こんな素敵な喫茶店があるなんて、知らなかったわ」

 フランソワーズは瞳をきらきらと輝かせて、視線だけで店内をチェックする。
 センスの良い落ち着いた店の造りも、店内に置かれている小物も素敵だし、ジョーの前に置かれている珈琲カップも、お水の入れられたグラスもお洒落、だ。
 何よりも、各テーブルに違った生花が、違った花器で飾られているところが、フランソワーズにはお気に入りだった。
 自分達のテーブルには、小さな向日葵が可愛らしい籠に生けられている。

「ジョーったら、もっと早くに教えてくれれば良かったのに…」
「僕が知ったのもつい最近なんだよ。いつもの道が工事中で通れなくてさ。迂回して、偶然見つけたんだ」

 じぃ〜〜〜〜っと意味ありげな視線で見つめられて、ジョーは慌てて弁明する。

「それじゃ、ジョーもこのお店に入るのは、今日が初めてなの?」
「うん。君の知り合いが居るんじゃないかと思って、店に入るときはかなりドキドキしたよ」
「たぶん、皆知らないと思うわ。レッスンの後、良くお茶に誘われるけど、このお店の名前は聞いたことないもの」
「彼女も?」
「彼女? あ……由美さん?」

 フランソワーズは、直ぐにジョーの言う『彼女』が誰なのか気付き、微苦笑してみせる。
 つられるようにジョーも苦笑しつつ、小さく頷いた。

「由美さんなら、今頃"空"だと思うわ」
「空?」
「秋にね、福岡に本格的な音楽劇場が出来るんですって。そのオープニングイベントのひとつとして、公演を依頼されてるんだけど、やっと舞台が形になってきたって聞いて……そうしたら由美さん、一度自分の目で確認したい、って、急遽現地に向かったの」
「そう…」
「……ジョーは、彼女が嫌い?」

 心底ほっとした様子のジョーに、フランソワーズは寂しげに問う。

「嫌いじゃないけど、今ココで会ったら……流石に誤魔化せない、だろ?」
「そう…ね」
「ごめん、フランソワーズ。今は未だ…」
「いいの。分かっているわ」

 フランソワーズは慌てて、ジョーの申し訳なさそうな言葉を遮る。

 彼が何を詫び、何を言おうとしているのか、即座に分かった。
 そして、現状を打破する為に、彼が努力してくれていることも…
 だから、そんな言葉を彼に言わせたくなかった。

「フランソワーズ…」
「強がりを言っているワケじゃないの。本当に、大丈夫だから…」
「本当に?」
「ええ。こういうことが嫌だとか、辛いとか、そんなふうには思ったことなんて一度もないわ。寧ろ、ね……スリリングなところも、ちょっと楽しいかな、って思ってる。それに……こんなふうに、貴方の変装姿も見られるし」
「……変装ってほどじゃないと思うけど」
「あら、そのサングラスは……その為、でしょう?」

 フランソワーズは声を潜めて、楽しそうに尋ねる。

 彼のサングラス姿は別に珍しくはない。彼は大人気のF1レーサーだから、素性がばれないようにと、外に出かける時には良くサングラスを使っているし、時には眼鏡で変装することもある。
 今、彼がかけているのも、淡い色のサングラスだから、店内でしていてもおかしくはない……が、そんなものぐらいで彼の格好良さが誤魔化せる筈がない、と、フランソワーズはいつも思う。
 逆に、その小道具(サングラス)が彼の容姿を更に引き立てて、周りの女の子達の視線を否応なく集めてしまっているのだが、彼はそのことに全然気付いていないのだ。

 その事が、フランソワーズには可笑しくて、そして――嬉しかった。

 こんなにも素敵な男性が、自分を待ってくれていて…、
 こうして自分だけを見、自分だけと話してくれているのが…――。

「ヘンかな…?」

 ジョーはバツが悪そうに問うと、フランソワーズの視線から逃れるように、持っていた雑誌を閉じ、空いている隣の席へ置く。

「ヘンじゃないわ。良く似合ってる」

 拗ねていると言わんばかりの彼の仕草に、フランソワーズはくすくすと微笑みながら、正直に答える。

「……/// お世辞はイイよ」
「まぁ、失礼ね。お世辞じゃないわよ」
「それは……どうも」
「あ〜〜っ 信じてないでしょう?」

「し、失礼しますっ アイスティーをお持ちしました」

 ぷうっと頬を膨らませたその時、先程とは別の店員(ウェイトレス)がアイスティーを運んで来、フランソワーズは慌てて表情を改める。
 そんなフランソワーズを見て、今度はジョーが思わず、くすっと笑みを零した。

 ウェイトレスは、ジョーの横顔をちらちらと盗み見、頬を染めながらフランソワーズの前に琥珀色の液体を満たしたお洒落なグラスを置くと、ぺこり、と一礼して去っていく。

「もしかしたら……この店って、開店したばかりなのかな?」
「え?」
「いや、だってさ……店の人、皆未だ慣れていないみたいだし…」

 ジョーは不思議そうに、ウェイトレスが立ち去った方向……カウンターの奥を見つめる。
 そこには、食器を片付けている2人のウェイトレス(若い女の子)が居て、先程の娘(こ)が合流すると、声を潜めながらも何だか興奮した様子で短い言葉を交わし、またそれぞれに仕事をこなしていく。

「皆?」
「うん。皆……、僕にオーダー取りに来た子も、珈琲を持って来てくれた子も、あんな感じだったんだ」
「……それって…」

 ジョーの説明を聞き、フランソワーズは直ぐにある結論に達したが、それを正直に彼に教えてあげる気にはなれず、言葉を途切らせる。

「何?」
「ううん、何でもないわ。確かに、開店して間もないのかも知れないわね。テーブルにも床にもあまり傷がないし…、敢えてアンティーク調に創ったんじゃないかしら」
「なるほど、ね」

 言われるがままテーブルや床を確認し、感心して納得するジョーに、フランソワーズは複雑な表情で、彼に気付かれないように溜息を吐くと、グラスにストローを刺し、口をつける。

(ホント……ニブイんだから…)

 女心が全く分かっていない――彼。

 この店の女の子達の言動がおかしいのは、"仕事に慣れてない"所為じゃない。
 ジョーのことが、"気になって仕方ない"からだ。

 いつもそうだ。
 彼の甘い容姿は、女性を惹き寄せる。
 その上、彼は優しいから……、困っている人を放ってはおけない。自分に縋り付く手を、振り解く事なんて出来ない。
 懸命に助けようと…、守ろうする。
 その行動が女の子には誤解を与えているのに、彼はそのことに全く気付かず…――

(もう少し……自覚してくれたらイイのに…)

 自分が女の子達を虜にしてしまう、強力な重力(魅力)を持っていることを…。

(でも……)

 彼のそんな不器用なところに、自分は惹かれた。
 そんな彼の事が、今もどうしようもなく―――好き、だ。

「で、これから……どうしようか?」
「ど、どうって?」

 改めて彼への想いを自覚したその時――その絶妙なタイミングで、彼の熱を帯びた視線と、低く甘い声が彼女を捉え……、自分の気持ちが見透かされてしまっているようで、フランソワーズはどきまぎと彼を見返す。

「フランソワーズは、午後は別に予定はないんだよね?」
「え、……ええ」
「此処でランチしていこうか? それとも別の店の方がイイかい?」
「でも……博士が待っているのに…」
「昨夜徹夜だったから、夕方まで休むってさ」

 ジョーはテーブルに頬杖をついて彼女との距離を縮め、真っ直ぐに……悪戯げな笑みを浮かべて、澄んだ碧い瞳を見つめる。

「イワンも夜の時間で心配いらないし……折角だから、ドライブでもどうかな?」
「……いいの?」

 突然の嬉しい誘いに、フランソワーズは戸惑いを隠せず、恐る恐る尋ね返す。

「君が迷惑じゃなければ」
「迷惑なはずないわ」

 フランソワーズはほんのりと頬を桜色に染め、顔を綻ばせる。

「じゃ、決まり、だね」
「ええ。でも……」
「でも?」
「それなら、もっとお洒落して来れば良かったわ」

 自分の服装をチェックして、ほぅ…と小さく溜息を零すフランソワーズに、ジョーはぱちぱちと瞬きを繰り返し、やっと彼女の真意に気付くと、目を細めて……優しい眼差しで彼女を見つめる。

「そのままでも、充分、だと思うけど…」
「だって、久しぶりのデートなのに……、ぁっ」

 拗ねた視線を彼に向けたその時、鞄の中の携帯電話が鳴り出し―――フランソワーズは慌てて相手を確認し、「由美さんからだわ」とジョーに報せると、彼が頷くのを見届けてから、携帯電話だけを持って小走りで外へと向かう。

 1人残されたジョーは、彼女の姿が観葉植物と扉に阻まれて見えなくなるまで追うと、意図せず重い溜息を零し、肩を竦める。

 電話をかけてきたのが"仕事で福岡に向かった"由美なら、話は間違いなく仕事のことだろう。
 ならば、フランソワーズの午後の予定が変更される……決まったばかりのデートを取り止めなければならないことはないだろうし、話が長くなることもないだろう。
 直ぐに戻ってる、と頭で理解していても、"取り残される"ことには、やはり慣れず、何だか落ち着かない。

 そんなざわざわする気持ちを抑えようと、珈琲カップに手を伸ばすが……残りはほとんど無く、カップに触れる前に諦めた。

(もう1杯頼むか…)

 フランソワーズのアイスティーは、未だ半分以上残っている。
 別の店へランチに行くにしても、彼女がグラスを空にするまでこの席からは立たないから、追加で珈琲を注文しても大丈夫だろう。

 ジョーは顔を上げると、店員の姿を捜す。
 ……と、ひとつの影が、彼の視線を遮った。

「?」

 ジョーの視界を遮ったのは……目の前に立ったのは、20歳くらいのショートカットの女の子だった。
 
 ―――――見覚えは、ない。

「すっ すみませんっっ」

 頬を真っ赤に染め、明らかに緊張していると分かる表情で、女の子は懸命に言葉を押し出す。

「あ、あのっっ F1レーサーの島村ジョーさんですよねっっ!」
「……えっ」
「私、大Fanなんですっ! Fan Clubにも入ってて。去年の鈴鹿にも応援に行きました! だから……その……サイン下さいっっ」

 女の子は一方的に息せき切ってそう告げると、ぺこり、とお辞儀しながら、胸に抱えていたノートサイズのスケッチブックをジョーへと差し出す。

「…………。」

 彼女のあまりの迫力に気圧されて、一瞬固まっていたジョーだったが、直ぐに自分が"最大限のピンチ"に見舞われていることを把握し、焦っていると気付かれないよう注意しながら、周囲の様子を確認する。

 案の定、店に居る全員が……客ばかりではなく、店員達までもが行動を停止し、固唾を呑んで自分達を見つめていた。

(……あ)

 同時に、ジョーはある事実に気付く。

 自分以外は全て―――――女性。

(そうか……だから……)

 ずっと感じていた居心地の悪さの原因は、これ、だ。

 たくさんの女性の中に、男がたった1人で居たら、目立つに決まっている。
 否応無く注目されていたから…、ちらちらと盗み見られていたから…、居心地が悪く感じたのだろう。

 しかも……
 自分のことを……F1レーサー・島村ジョーのことを良く知っている女性(ひと)が居たのだから、噂は狭い店内を瞬く間に駆け抜け…―――

(マズイ、な…)

 事態が更に最悪な方向へ転がり落ちつつある事を悟り、ジョーは仕方無く"防衛態勢"に入る。

「ええと……、ごめん、人違い、だよ」
「え? でも…っ」
「よく似てるって言われるんだ」

 絶対に本人だ!、と言わんばかりの強い瞳に射抜かれつつ、ジョーは努めて冷静に…、苦笑いを浮かべながら答える。

「ホントにご本人じゃ…ないんですか?」
「うん。ごめんね」
「そうですか…」

 女の子は差し出していたスケッチブックを胸に戻し、落胆した表情になる。
 が、直ぐに、先程までの高揚した…きらきらした瞳に戻った。

「それじゃ、あの……一緒に写真撮って下さいっ!!」
「……えっ ……だから、僕は…島村ジョーじゃなくて…」
「そっくりさんでも構いません! お願いしますっっ」
「いや、だけど……」
「一目惚れなんです。だから……1枚だけで良いんで、お願いしますっ!!」
「………。」

 予想もしていなかった彼女の言葉に、ジョーは返す言葉を失くす。

 此処で、自分が"島村ジョー"だと明かすわけにはいかない。
 偽物という言葉を彼女が本当に信じてくれたのなら、写真ぐらいは…とも思うが、元々写真を撮られるのは苦手だし、彼女にOKを出せば、そのまま店に居る女の人全員との大撮影会となることは目に見えている。
 だが、彼女が"島村ジョー"のFanで、"島村ジョー"が写真を撮られることが苦手であることを知っているとすれば……、探り、だという可能性もあり、断るのは"島村ジョー本人"だと認めるようなものだろう。

 それに……
 フランソワーズの目の前で、違う女の子と写真を撮るなんて……絶対に出来ない。

 ジョーは覚悟を決めると、サングラスを外してシャツの胸ポケットに刺し、雑誌を手に無言のまま立ち上がる。
 そして、目的を達するまでは絶対に退かないっ、という、決意あふれる表情で立っている女の子とは視線を合わせないまま……長い前髪に表情(かお)を隠すようにして告げる。

「ごめん。彼女以外とは写真は撮らないことに決めているんだ」
「え?」
「君だって、大切な彼(ひと)が他の女の子と2人で写真を撮るなんて、嫌だろ?」
「それは…」
「そういうことだから…」
「……っ//////」

 ジョーは、ちらり、と、ほんの一瞬だけ彼女に視線を投げる。

 魅惑的な赤茶色の瞳に捕らわれた女の子は、完全にフリーズし……

 その隙を付くようにして、ジョーは「ごめん」と小さく謝罪すると、彼女の前から一歩踏み出し、フランソワーズの鞄を持ち、静まり返った店内を自然な歩幅でレジへと向かう。

「幾らですか?」
「あ、は、はい…。ええと……850円になります」
「じゃ、これで。……お釣りはイイです」

 ジョーは千円札をレジに立つ女性に手渡すと、くるりと踵を返し、痛いほどの視線から逃れるように、木の扉を潜る。

 背後で扉が、ぱたん、と微かな音を立てて閉じる。

 その一呼吸後…―――
 ジョーは、ほぉ〜〜〜〜〜〜っ、と、緊張感と同時に魂まで抜けるほどの長い溜息を吐いた。

(何とか……やり過ごせた、かな…)

 決して上手だったとは言えないが、あの女の子にも嫌な想いはさせずに、ピンチから冷静に脱却出来た……筈?

 ―――本当に?

 次第に崩れていく"微かに抱いていた自信"に、嫌な汗が滲む。

「ジョー? どうしたの?」

 由美との電話を終え、店内へ戻ろうとしたフランソワーズは、扉の前にジョーが居ることに…、明らかに様子がオカシイ上に、サングラスをしていない事に驚き、大きな碧い瞳をますます大きく丸くする。
 が、次の瞬間、彼の手に自分の荷物が握られていることに気付くと、大凡の事態を悟った。

「もしかして……」
「行こうっ」

 フランソワーズの言葉を、照れ臭さから故意に遮ると、ジョーは彼女の手首を掴み、足早に愛車へと向かった。





「……バレちゃった、の?」

 ジョーの愛車である黒のスポーツタイプの車に乗せられ、逃げるように喫茶店を後にしてから一言も喋らない彼を、指定席(助手席)からフランソワーズは心配そうに見つめる。

 真正面を向いたまま…、口を真一文字に結んでハンドルを握るジョー。
 長い前髪に阻まれて、瞳までは伺えないが……彼の頬は、"未だ"ほんのりと朱に染まったまま、だ。

「大丈夫だったの?」

 フランソワーズは彼の沈黙を"肯定"と受け取り、更に問いかける。

「うん……たぶん」

 やっと彼の口から零れた、ぶっきらぼうな素っ気ない言葉に、フランソワーズは彼が見舞われた"窮地"がかなり重篤だったことを知る。

「たぶん?」
「…………完全敵地(アウェイ)な気分だったよ」
「え?」
「……ひとり、だったんだ」
「ひとり??」

 何のことなのか皆目検討がつかず、フランソワーズは頭の上に大量の『?』を浮かべる。

「男」
「……男???」
「だから…………、男が……僕だけだったんだ」

 溜息交じりの彼の告白に、フランソワーズは一瞬固まり…――直後…車が赤信号で停まったのと同じタイミングで破顔し、肩を震わせて笑う。

「……笑うなんて、ヒドイや」

 彼女の予想外の反応に…、そして、誰もを魅了してしまう可愛らしい笑顔に、ジョーは拗ね切った言葉を投げつつ、更に頬を紅くする。

「ごめんなさい。でも……、だって…」

 懸命に笑いを抑え込んでから、フランソワーズは再び真っ直ぐに彼の横顔を見つめる。

「ジョーったら……気付いていなかったの?」
「じゃあ、君は気付いていたのかい?」
「もちろん、よ」

 フランソワーズは、きっぱりと肯定する。

 気付いていたに決まっている。

 店に一歩入ったその時に、店の雰囲気が"妙"であることに、直ぐに気付いた。
 そして、その原因が彼であることも…――。

 彼に集まっているたくさんの視線。
 こそこそと囁き合う、弾んだ声。
 皆……彼の魅力に惹かれ、近づきたいと…、言葉を交わしたいと…、隣に並ぶ存在になりたいと、そう切望し―――狙っている。

 そのことに…、
 大切な男性(ひと)を奪われそうになっていることに、気付かない筈が無い。

「それなら……教えてくれれば良かったのに…」
「あら、だって…、誰かさんは私が行くまで、ずっと"あの状況"の中に居たんでしょう?」
「え? ま、まぁ…、そうだけど……」
「じゃ、あんな状況も、全然全く平気なのね、って思うじゃない」
「…………。」

 穏やかな口調と完璧な笑顔で、手加減無くトドメを刺され、ジョーは自分が地雷を踏んだことを思い知る。

 彼女を本気で怒らせたら―――BGなんかより遥かに怖い。

「……ごめん。でも……本当に知らなかったんだ。あ、いや……何かヘンだなぁ〜とは思ったんだけど、女の子だけだったなんて、全然気付かなくて…」
「本当に?」
「ホントだよ。気付いてたら、とうの昔に席を立ってたよ」
「若くて可愛い女の子達に囲まれて、ホントは嬉しかったんじゃない?」
「そんなコトあるはずないだろ…。それに、囲まれてなんかいないよ。声をかけられたのは、1人だったし…」
「1人?」
「ああ」
「何て声をかけられたの?」
「……サイン下さいってさ」
「え? サインしてあげたの?」
「まさかっ 『人違いだ』って断ったよ」
「その子、それで信じてくれた?」
「どうかな…。『偽物でもイイから、一緒に写真撮って欲しい』って言ってたけど…」
「写真?」
「あっ もちろん断ったよ」

 哀しげに揺れる瞳で睨まれ、ジョーは慌てて弁解する。

「写真が苦手だからって、断ったの?」
「イヤ…、それだと"島村ジョー"だ、って明かしているのと同じだと思って…」
「それじゃ、何て?」
「ん…………『彼女以外の女性とは写真は撮らないようにしてる』って言って、断った」
「彼女?」
「だから………」

 ジョーは一度そこで言葉を切り、青信号で車を発進させると、

「……君、だよ///」

 と、小さく吐き捨てるようにそう告げる。

 彼がそんな態度を取るのは、"照れ"からであるのは明白。
 なかなか言葉に出来ない不器用な彼の、精一杯。

「っ////////」

 彼の言う"彼女"という言葉が、"一般的な女性"を指し示しているのではなく、"特別な女性"="恋人"を意味していると気付くと、フランソワーズは、ぽっと顔を桜色に染める。

「……その後、直ぐ店を出てきたんだ」
「直ぐに? その子や他の人から呼び止められなかったの?」
「うん」
「ホントに、それだけ?」
「それだけ、だよ」
「……仕方ないから、信じてあげるわ」

 懸命に説明(弁解)するジョーが、可笑しくて…、どうしようもなく嬉しかった。

 彼の言葉に嘘が無いコトは、フランソワーズが一番良く分かっていた。
 若い女の子の中に、たった1人で平気でいられるほど、彼はクールじゃないし、その中で自分の正体を隠し切れるほど器用でもない。

 現に……正体がバレそうになって慌てて店を出、そのことに自己嫌悪して話もしなくなっていた。

 外見と内面にこれほど差がある人も珍しい、と思う。
 でも……そんな彼だからこそ、惹かれた。

 そんな彼だから―――どんどん好きになる。

 フランソワーズは、ほっと安堵の溜息を吐くジョーを…、
 自分が独り占めしている"彼"を、運転の邪魔にならないように覗き込む。

「その代わり、今日のランチは私に付き合ってね」
「それは、もちろん構わないけど…。何処へ行くんだい?」
「そうね……取り敢えず、パン屋さんかしら」
「パン屋??」

 聞き間違いかと思って尋ね返すジョーに、フランソワーズは「ええ」と頷き、目的地が冗談じゃなく本当に"パン屋"であることを伝える。

「その後は、前に行った渚公園にお願いね、運転手さん♪」
「え?」

 それは、海の近くにある小さな……その周辺に住んでいる人しか知らないような、本当に小さな公園。
 前に偶然見つけた――彼女のお気に入りの場所。

 未だ意味が分からず困惑している彼に、フランソワーズはにっこりと…向日葵のように微笑み、種明かしする。

「折角こんなにイイお天気なんですもの。サンドウィッチと飲み物を買って、公園でランチにしましょう」





 ―――――誰の目も、気にせずに、ね。





Fin












::: おまけ :::




 取り敢えず―――
 先ずは、踏んでおきましょうかっっ(笑)

 実はこのお話は、"紫音さんが書くはずだった"ものなんです(大暴露)
 原案と言うか、元ネタは、『Secret Angel』と同時期に出来上がりまして(どちらも紫音さんと2人で考えましたです♪///)、私(祐浬)がFan感謝イベント(Secret Angel)のStoryを、紫音さんがこの喫茶店でのStoryを書く、ことになったのですが……

 …………が(-""-;)

 ――――何故、どちらも私が書くことになったんでしょう…?(-_-#)

 ということで、↑のお絵びイラストは、紫音さんの"禊"の品です♪(笑)

 変装(サングラス)ジョーくんっっ
 やっぱり、むちゃくちゃ…
カッコイイです(>_<)///(←悔しいので小声っ(笑))

 サングラスと言えば…、
 声をかけられた女の子の前で、わざわざサングラスを外した理由を奴に訊いたら(何とか訊き出しましたっっ)、
「"偽物"なのに、サングラスをしたままなのはオカシイと思って…」
と言ってました~(-゛-;)~

 反論は多々あると思います;;;;;;
 私も、ですから!(爆)

 やっぱり、最大の理由は『奴が天性のタラシだから』ですよねっっ(握り拳っ)

 ま、奴は本当に"それだけ"しか思ってなくて、自覚は全然全くないんでしょうけど……。
 そんな行動(女の子を瞳で殺す///;;;(倒))を咄嗟にとってしまうこと自体が、立派な『スケコマシ』ですっ(きっぱり)

 …………げしっ(←踏んでみた(爆))


 ………………。


 と、言いつつ、
 紫音さんの描かれるジョーくんになら、瞳で瞬殺されてみたい♪/////と思っていることは、絶対内緒なのですっっ(>_<)///


2008.7.16 祐浬







Back











 

祐浬 2008/7/16