「雨、止んで良かったわね」

 風に弄ばれた長い髪を直しながら、女性は空を見上げ、降り注ぐ陽の光のあまりの眩しさに目を細める。

 今朝まで降り続いていた雨は、天気予報に反して夜明けと同時に上がり、今は僅かに残った薄い雲を追い払うかのように、澄んだ青い空が広がり始めている。

「そうだね。でも、この時期のレース観戦には、曇りの方がありがたい、かな」

 彼女につられるように空へと視線を上げた男性は、刻々と強くなる陽射しと急上昇していく気温に、苦笑してみせる。

 7月の最終日曜日――となれば、東京よりは北に在り、"避暑地"と呼ばれているこの地方でも、正真正銘の"夏"だ。晴れれば、気温は30度以上になる。
 1日中外で過ごすことになるレース観戦では、"ずっと雨"よりは遥かにマシだが、"ずっと炎天下"もかなり辛い。
 況して、レース観戦初心者の彼女にとっては、間違いなくキツイだろう。

「それにしても驚いたよ」
「何が?」
「キミが『一緒に行きたい』と言い出すとは、思わなかったから」
「あら、好きな人と一緒にいたいと思うのは普通でしょ?」
「……/// まぁ、そうだけど……。モータースポーツになんか興味なかっただろ?」
「興味あることにしたの」
「え?」

 謎めいた彼女の言葉と笑みに、不審そうに眉を顰める彼。
 すると、彼女は縋るような目で彼を見上げ…―――

「だから、F1にも連れて行ってね」
「F1って……鈴鹿?」
「そう。本当は友達と行こうと思ったんだけど、もうチケット完売してて…。智哉、グループシート取ったんでしょ? 一緒に行く人捜すって言ってたじゃん」
「言ってた、けど……。麻綾、最初に誘ったとき、『興味ないし、高いから行かない』って言っただろ?」

 智哉と呼ばれた男性は、彼女――麻綾の突然の豹変ぶりに驚き、問う。

 彼女をF1観戦に誘ったのは、ほんの3ヶ月前のことだ。
 "グループシート"(まとめてチケットを買う)方が安かったために、一応誘ってみたのだが、いくら安くなっているとはいえ、仕事を始めたばかりの自分たちには到底"安い"とは言えない値段を聞き、即、断られたのだ。

「あのときとは事情が変わったの」
「どう変わったんだよ?」
「だって、ジョーをナマで見られる数少ないチャンスじゃないっ!」
「…………。ジョーって、…………もしかしなくても、島村ジョー、だよね?」
「そうに決まってるでしょっ!」
「……って、麻綾、いつからジョーのFanになったんだよ?」

 瞳をきらきらと輝かせ、さも当然と訴える彼女に、智哉は眩暈を覚える。
 彼女と付き合い始めて1年になるが、そんな話、初耳だった。

「ん〜〜〜、1週間前くらいかしら。見てたテレビに偶然彼が出て♪ もぉ〜〜無茶苦茶カッコ良くて!/// なんて言うの? も〜ど真ん中!って感じ?♪」
「それ、彼氏(俺)に言う?」
「いいじゃない、所詮手の届かない男性(ひと)なんだから。アイドルみたいなものよ。智哉とは別! 智哉は一緒に居てくれる大事な彼氏♪」
「……本気で言ってる?」
「もちろんよ! いいじゃないっ、どんな理由(切欠)でも智哉と一緒の趣味が持てたんだからっ」
「まぁ、そうだけど……」
「じゃ、鈴鹿、連れて行ってくれる?」
「はいはい」

 智哉は複雑な気持ちを完全には払拭できないまま、承諾する。
 自分の彼女が他の男を「好き」と言うのは面白くはないが、確かにどんなに彼女が彼――"島村ジョー"を好きでも、彼女の想いが届くことはないだろう(……たぶん)。彼女の抱いている想いは、アイドルや歌手、俳優へのものと同じ。
 それに、どんな理由であっても、彼女が自分の好きなモータースポーツに関心を持ってくれたこと、そして、いろんな場所(サーキット)へ一緒に出掛けられるようになったというのは純粋に嬉しい。

 ―――結局は、惚れた弱みってヤツだ。

「ありがと〜〜〜〜♪ そうと決まったら、いろいろと勉強しなくちゃね!」
「何を、だよ?」
「ルールとかマナーとか、いろいろ、よ。だって、ヘンなコトしてジョーに迷惑かけたくないじゃない〜〜」
「もしかして、今日一緒に行きたいって言い出したの、そのため?」
「そう、予習♪」
「いや、ココとF1じゃ全然違うよ」
「そうなの?」
「規模が圧倒的に違うよ。F1は人が多すぎて、こんなにゆっくり観戦できないしね。それに、去年から女の子の割合スゴク高くなったよ」

 智哉はそう言って、首を竦めてみせる。
 両親の影響もあって、智哉は幼い頃からほぼ欠かさずF1(日本グランプリ(GP))観戦に行っていた。
 良く知るはずのF1GP―――その様子が一変したのは去年から。
 失踪したと噂されていた島村ジョーが、突然F1界に復帰を果たして以降だ。
 彼の復帰戦であった鈴鹿で女子の割合が一気に跳ね上がり、そして、今年に入ってますます増え、TV放映されたのを見たが、開催されたどのGPでも大変なことになっている。

 モータースポーツにまったく興味のなかった麻綾でさえ『行きたい』と言い出したのだ。
 今年の鈴鹿は、たぶん……いや、確実にスゴイ状態(コト)になる。

「言われてみれば、女の子、あんまりいないね〜」

 智哉の説明を聞き、麻綾は改めて自分たちの座っているスタンドを見回す。
 設備の整ったメインスタンドではない所為もあって、観客席は半分ほどが埋まっている感じだ。しかも大半が男性。女性の姿は、自分のような男女のペアか、子ども連れの母親くらい、だ。

「普通は大体こんな感じだよ。女の子だけで来てるのは、F1以外ではほとんど見たことないかな」
「そうなんだ。あ、でも……、ほら、あそこに女の子1人で来てる人がいるよ」
「え?」

 麻綾が視線で指し示す方向――右斜め下、通路端の席に、確かに女性が1人、ぽつんと座っていた。
 強い陽射しを避けるためのパラソルは、赤と黒の某有名メーカーのものだが、服装はメーカーやチームのものではなく、普通の――淡い水色の涼しげなカットソーに、七分丈のパンツ姿。裾や袖から延びる手足は驚くほど白く、黄金(ブロンド)に近い亜麻色の髪はゆるくウェーブしている。
 薄いサングラスをしている上、斜め後ろから見ているので、顔立ちまでは確認できないが…―――

(……すごく綺麗な人、だな)

「外国の人みたい。1人で来るなんて、よっぽどレースが好きなんだね」
「いや……、誰か連れがいるんじゃないかな?」

 あれほどの美人が1人でこんなところに来ているとは到底思えず、智哉はそう答える。

「でも、荷物も1人分しかないみたいだし、隣の席、確保してないよ?」

 麻綾の指摘通り、女性の持ち物は小さな鞄だけで、隣の席には何も置いて(場所取りして)おらず空席になっている。

「関係者、かなぁ…?」
「関係者?? あ、彼氏がレーサーで応援に来てる、とか?」
「かもしれない。でも、関係者なら、普通はピットや関係者席で応援するんだけどな〜?」
「じゃ、秘めた関係、とか?」
「何だよ、秘めた関係って??」

 わくわくと楽しそうに詮索する彼女に、智哉は苦笑いを浮かべる。

「愛人とか……、もしくは、彼女が有名人で付き合っていることを隠してるとか?」
「想像力逞しいねぇ〜」
「あながち間違ってないかもよ? だって、あの女性(ひと)、どこかで見たような気がするもん」
「どこかってドコだよ?」
「う〜〜〜〜〜ん、思い出せない。けど、絶対どこかで見たって!」
「まぁ、かなりの美人だから、モデルか何かやっててもおかしくないけど…」
「あ〜〜〜っ 浮気だっっ」
「え? いや、違うって!」

 ぷぅと頬を膨らませる麻綾に、智哉が慌てて否定する。
 が、その言葉は彼女に伝わる前に、フリー走行を始めたマシンのエンジン音によって掻き消されてしまった。







 耳を劈く爆音(エンジン音)が響くスタンドを見下ろし、見覚えのある姿を捜す。
 観客席には、メインのレースとなるマシンたちのフリー走行が始まったこともあり、自分がここを離れたときより観客が増え、どんどん強くなる陽射しを避けるために様々なパラソルが咲いている。
 その中から、良く知ったパラソルを見つけ出すと、ゆっくりと通路(階段)を降りた。

「待たせて、ごめん」

 そう声をかけたものの、響き渡るエンジン音に阻まれて彼女には届かず、とんとんと彼女の――フランソワーズの肩を叩く。
 フランソワーズは驚き、はじかれたように顔を上げ、そして、自分に触れたのが彼だと――ジョーだと知ると、安堵の笑みを浮かべた。

「隣、座ってもイイかい?」
「ええ、もちろん」

 言葉自体は聞こえなかったものの、口の動きと仕草から読み取ったフランソワーズは、ひとつ席をずれて、自分が座っていた席を彼に譲る。
 ジョーは観客たちの邪魔にならないよう…、そして、自分が目につかぬよう素早く座り、彼女の持つ大きめのパラソルの下に入った。

「長い時間、待たせてごめん。行こうか?」

 ジョーは彼女の耳元に唇を近づけ、改めて彼女を1人きりにしてしまったことを詫びる。
 だが、彼女は少しも彼を責めることなく、逆に心配そうに彼を見つめた。

「もう、いいの? 私のことなら気にしないで」
「用事は済んだよ」

 ジョーはそう答える。
 今日、このサーキットを訪れたのは、ジョーが所属するチーム"HAYATE"の中条監督から指令だった。
 メインレースの前、午前中に開催されるワンメイクレース。若手の登竜門でもあるそのレースに出場するとあるチームを訪問し、激励して欲しいと頼まれたのだ。
 中条監督とそのチームの監督――滝沢監督は親友であり、ジョーにとっても恩師にあたる人だった。
 (幼いジョーにレーサーの才能があることを見抜いた中条監督が、滝沢監督にジョーを預けた)
 この世界では知らない人はいない有名な監督で、大きなチームの監督へのオファーも絶えないが、『俺は、金の卵を見つけるのが好きなんだ』と、ずっと若手発掘となるレースに挑み続けている。

 中条監督の指令は"仕事"ではなく、あくまで個人的な頼み。断ることもできたのだが、ジョー自身、一度ちゃんと滝沢監督に会ってお礼を言いたいと思っていたため引き受けた。
 が、今や超有名人(F1レーサー)であるジョーが行くことがバレれば、大変な騒ぎになってしまう。
 そのため、滝沢監督にすら事前には告げず、一般観客に紛れてサーキット入りをし、そこから中条監督に渡されたスタッフパスを使って、滝沢監督が率いるチームを訪ねたのだった。

 本当は…、できることならフランソワーズを滝沢監督に紹介したかったのだが、自分たちの関係は未だ公にしておらず、ピットを訪れれば監督以外の大勢の目に…、そしてマスコミの目にも晒されることになるため、彼女にはここで待っていてもらうことにしたのだ。

「退屈じゃなかったかい?」
「そんなことないわ。レース、楽しかったもの」
「そう?」
「ええ。ジョーがお世話になった監督さんのチーム、一生懸命応援したのよ。勝って良かったわね」
「ああ」

 本当に嬉しそうに微笑むフランソワーズに、ジョーもつられて表情を緩める。

 彼女を誘うかどうかは、正直なところかなり迷った。今も、本当に連れてきて良かったのか、判断できずにいる。
 自分たちが置かれている立場を考えれば、こんな場所に彼女を連れて来るべきじゃない。けれど、彼女との時間は1秒でも長く確保したいし、自分の世界を彼女に見てもらいたいと思う。

(いっそ、スクープでもされれば……)

 彼女と堂々と歩け、彼女が自分のものだと誇示できるのかもしれない。

(だけど……)

 同時にかなりの…、今よりも遥かに大きいリスクを背負うことになる。

(今はまだ……準備が整っていない…)

 マスコミや自分のFanの人(女の子)たちから彼女を護るための策は、少しずつだが整えてはいる。が、未だ充分とは到底言えない。
 そんな現状では、やはり自分たちの関係は秘めなければならない。

「これからどうするの?」
「帰る、よ」
「え? 最後まで観ていかないの?」
「観たいトコロだけど、長居すると面倒なことになりそうだからね」

 ジョーはそう言って、苦く笑んだ。

 いくらサングラスをしているとは言え、モータースポーツが好きな連中が犇めいているこの場では、正体がバレるのは時間の問題だろう。
 もしバレれば、パニック状態に陥るのは必至。
 今日のレースを妨害してしまうような事態は避けなければならない。
 そして何より―――彼女を危険な目に遭わせたくなかった。

 そのためには、なるべく早くサーキットを後にした方が良い。

「じゃ、行こうか…」
「……ええ」

 ジョーは彼女の手からパラソルを譲り受けると、移動時に極力人目を引かぬようそれを畳む。
 それから、すっと彼女へと手を差し出した。

「え…?」

 自分に向けられたその大きな手に、フランソワーズは戸惑い、彼を見つめる。
 こんなにもたくさんの人たちがいる場所で、彼が手を繋ごうとするのはめずらしかった。
 しかも、いつ彼の正体がバレるかわからないのに、だ。

 もし万が一正体がバレても、一緒にいるだけだったら何とか誤魔化すことができるかもしれない。
 でも、手を繋いていたら……。

 と、躊躇うフランソワーズの手をジョーは強引に取る。

「階段だし、まだ所々濡れていて危ない、から…」
「ジョー…////」
「しっ」

 恥ずかしそうに…、嬉しそうに目を細めるフランソワーズの唇を、ジョーは人差し指で、ちょん、と塞ぐ。

「ここでは禁句だよ」
「あ…/// ごめんなさい」

 真っ赤になりながら慌てて謝るフランソワーズのその可愛らしい仕草に、ジョーはふ、と笑む。

「後で、たくさん呼んで、よ」
「後で?」
「そう……」

 ジョーはそこで言葉を切ると、もう一度彼女の耳元に唇を寄せ、直接彼女の耳へと言葉を流し込んだ。

「……ベッドで、ね」
「っっっ?!☆▽◆#□*※★///////」







「すごい迫力だね〜っ!」

 痴話喧嘩していたことも忘れ、目の前を通り過ぎるマシンたちに夢中になっている麻綾を、智哉は微笑ましく見つめる。
 自分の好きなものを、好きな女性(ひと)と一緒に楽しめるのは、やっぱり嬉しかった。

「智哉はどのチームを応援してるの? どの車??」
「ええと……、あ、今来たヤツだよ」
「え〜? どれ?」
「17番! その青い車! …………っ?」

 贔屓のマシンを彼女に教えようと指差したとき、その視界の端で、す、と立ち上がった2つの影に、智哉は違和感を抱く。

「あ、あの女の子、彼氏と一緒だったんだね」

 仲睦まじく手を繋いで階段を上っていく2人。
 頬を赤らめながら後ろを付いていくのは、麻綾が言う通り、さっきまで1人で観戦していたあの女性だった。

(うわっ やっぱりスゴく綺麗な人だ/// ……って、あれ???)

 女性の美しさに一瞬見惚れてしまったものの、智哉は、はっと我に返り、慌てて男の方へ視線を固定する。
 すでに階段を上り切り、メインゲート方向へと歩いていく後ろ姿。

(あの姿、どこかで…………)

 女性の方に見覚えはないが、男性の方には確かに見覚えがあった。

 と、2人の姿が物陰に阻まれて消える直前、2人は立ち止まり、振り返って、まだマシンが走るコースを眺める。
 そして、何事か言葉を交わし、男の方が一瞬だけサングラスを取って、女性を見つめ…――――

「っっっっ!!!!!」

 彼が何者なのか閃いた智哉は思わず立ち上がり、後を追おうとする。
 だが、その手を麻綾が捕えた。

「どうしたの?」
「いたんだよっ!」
「誰が??」
「島村ジョー、だよ!」
「えええぇぇっっ??!! どこに?!」
「1人でいた女の子と手を繋いでた男の人! あれ、絶対にジョーだ!」
「マジでっ?!」

 智哉と麻綾は慌てて階段の上を見、2人を探す。
 が、もうそこに人影はなく……。
 急いで階段を駆け上がり、2人の向かった方向を探したものの――彼らの姿はまるで陽炎の如く消えてしまい、見つけることはできなかった。





― Fin






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祐浬 2013/8/22