無月
― 「想い」番外編3 ―



 その夜は新月だった。
 漆黒の闇に浮かぶのは、細い…目を凝らして見なければその存在を見逃してしまうほどの頼りなさげな月。
 いつもはその潤んだ銀に輝く月の光に、その存在を掻き消されてしまっている仄かな星達も、今夜はひっそりと己を誇示している。

(皮肉なものだな…)

 004はふっと薄く笑む。

 夜の象徴でもある月。
 その月が隠されることで現れる、満天の星空。

 主となるものが消え失せた時、それまで見えていなかった事が見えて来る。
 そんな苦い経験を、004は幾つも味わってきた。

 その最たるものが……最愛の女性を失った時。

(お前を幸せにしてやることは出来なかった、な…)

 004はシャツの下に忍ばせてある彼女の指輪に、服の上から触れてみる。
 微笑みながら命を散らせて逝った彼女。
 この手で幸せにしてやりたいと心から願っていたのに、結局は彼女を死に至らしめてしまった。

 彼女を失って気付いたのは、自分が唯一の女性(ひと)も守れない非力な人間だということ。
 そして、泣いても叫んでも、どんなに願っても、失ったものは二度とは戻らないということ。

(そんな想いはさせられない…)

 004は星空から、室内へと視線を巡らせる。
 そこには穏やかに眠るフランソワーズが居た。

 やっとその身を焦がすほどの愛を知ったはがりのフランソワーズ。彼女には、自分のような哀しき想いはさせたくないと、004は心から願っていた。

「う……ん…」

 フランソワーズは艶っぽい吐息を吐くと、ころんと寝返りを打ち、横向きになる。
 その弾みで彼女の躯を覆っていた毛布が大きく捲れ、透き通るほどに白くて細い、完璧な曲線美を描く2本の脚が004の目に曝された。

 004は、やれやれと溜息混じりに独り語ち、床に落ちかかった毛布を直してやろうと彼女のベッドへ向かう。

 ナイトランプのオレンジがかった暖かな光に照らされたフランソワーズは、いつにも益して美しく、そして神秘的だった。

 004は暫し本来の目的を忘れて、まるで美術品を愛でるかのようにフランソワーズを静かに鑑賞する。

 白いシーツに散らばった亜麻色の髪。
 薄っすらと潤う柔らかそうな唇は微かに開かれ、すーすーと穏やかな寝息が漏れていた。
 その唇に触れるか触れないかの位置に、緩く握られた手が添えられている。

 女性特有の柔らかで丸みのあるボディライン。
 目覚めている時の、くるくると表情の変わる、何処か幼さの残る無邪気で一途な彼女とは違う、妖艶で魅惑的な…誘うような大人の女性の顔。

(奴は…こんな彼女を見ているって訳か……)

 恐らく…いや、確実に、ジョーは彼女のもっとオンナの顔を知っているのだろう。
 自分の知らない彼女を……。

 ちくり、と、胸の奥に針が落ちた。

 その気持ちが何であるのか、004には直ぐに分かった。
 ―――ジェラシー、だ。

 自分もそんな彼女を見てみたいと思う。
 快楽に翻弄され、昂められた彼女は、一体どんな顔をするのだろうか。どんな色っぽい声で啼くのだろうか。

 この部屋に居るのは、自分とフランソワーズだけ。
 彼女の心も躯も独占している騎士(ナイト)はここには居ない。邪魔することも出来ない。
 004の欲望を遮るものは、己の良心だけだった。

「んん……」

 何も知らず深い眠りに落ちているフランソワーズが再び寝返りを打ち、仰向けになる。
 着乱れた夜着。大きく肌蹴た胸元から、ちらりと覗く胸の谷間。

 004は吸い寄せられるように彼女へ近付き、顔の横に手を付くと、ゆっくりと…ゆっくりと、無防備に曝された彼女の唇へと、己の唇を寄せていく。

「……ジョー」

 唇が重なり合う寸前だった。
 奇跡のように呟かれた、彼女の最愛の男性の名前。

 ガツンと殴られたような衝撃が走り、004はその瞬間に我を取り戻した。
 ばっと彼女の顔から遠ざかると、そのままバスルームへと逃れ、蛇口を捻り冷たい水で顔を洗う。

(俺は、何を……っっ)

 何をしようとしていたのだろうか。

 自分を心から信頼し、安心し切ってこんなも穏やかに眠っている彼女を、己の欲望だけで汚そうというか。
 友を裏切ろうというのか―――。

 鏡に濡れた己の顔を写す。
 そこには、血に飢えたような男の顔が在った。

(俺としたことが……修行が足りないな)

「どうしたの?」

 背後からかけられた控え目で心配げな声に、004は驚いて振り返る。
 バスルームの入り口に立っていたのは、眠そうな顔をしたフランソワーズだった。

「起こしてしまったか……すまない」

 音を立てないようにと注意したつもりだったが、『音』に聡い彼女を目覚めさせてしまうには充分だったのだろう。

 フランソワーズは「ううん」と小さく首を横に振り、少しも004を責める事無く、ただ不安そうに彼を見つめた。

「眠れないの?」
「いや……目が覚めてしまっただけだ」

 004は彼女に心配をかけまいと咄嗟に嘘を吐くと、タオルで濡れた顔を拭く。

「もしかして…悪い夢をみたの?」
「悪い夢、か…」

 そうかも知れないと、004は思う。
 一瞬、月の無い漆黒に……己の心の奥底に渦巻く夢魔に魅入られただけ。

「そう、だな…」
「それなら……」

 フランソワーズはするりと004の懐に飛び込むと、彼の胸に手を添え、躊躇う事無く彼の頬にふんわりとキスをする。

 彼女のその突然の予想外の行動に、004は驚き、暫し放心状態に陥る。

「おまじない、よ。キスをすると、もう悪い夢は見ないのよ。小さい頃にママンがよくしてくれたの。効果は抜群なんだから」

 004から離れ、フランソワーズは無邪気な笑顔で、キスの意味を告げる。
 つられて、004も薄く笑んだ。
 いや、正しくは笑むことしか出来なかった。

「それじゃ、私はベッドに戻るわね」
「…ああ」

 ふわぁっと可愛らしい欠伸を片手で隠しながら、ふらつく足取りでベッドへと戻っていくフランソワーズを、004は複雑な眼差しで見送る。
 そして、彼女の姿が扉で見えなくなってから、ほうっと胸につかえていた息を吐き出した。

(確かに…効果は抜群だろうな)

 これで、今夜は確実に眠れない。
 だから、夢を見る筈もない。



 ―――こうして004の受難の夜は更けていくのであった。



―Fin―
 


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祐浬 2002/12/13