lucide

― Story by Yuuri ―



「あ…、ジョー、もう……?」
「ああ。もうイイよ」
「本当に……もう、イイの?」

 長い時間焦らされ続けた彼女は、不安気な…泣き出しそうな瞳で彼を見つめ、再度許しを乞う。

 焦らされる事が、嫌な訳じゃない。
 けれど―――逸る気持ちを抑え切れなかった。

「本当に、もうイイよ」

 彼女が何を求め、何を焦がれているのか……充分過ぎるほどに知り尽くしているジョーは、同じ言葉を繰り返すと、くすっと笑み、彼女の望みを承諾する。

 どうせ最初からそのつもりで、此処へ……彼女の元へ来たのだ。
 この期に及んで彼女を焦らし弄ぶなんて、そんな気は無い。

 ジョーは、すっと彼女の前に手を差し出すと、「おいで」と誘う。

「ジョー……」

 自分に向けられたその大きな掌と、低くて甘い声音、そして優しくて熱い眼差しに囚われ、フランソワーズは、どきっとし、頬を桜色に染める。
 拒むことなんて出来なかった。
 何かを考える前に、身体は独りでに彼の命令(言葉)に従い、彼の手に縋り、導かれる。

 そして―――。

「ぁ……」

 最後の扉を潜り抜け、一気に空の元へ―――クルーザーの甲板に歩み出たフランソワーズは、眩しい光の洪水と美しい風景に目を細め、息を呑む。

 きらきらと輝く水面に浮かぶ、たくさんのクルーザー(船)
 海岸線にまで迫る、美しい街並み。
 何処までも澄んだ蒼い空に浮かぶ、真っ白な雲。

「……綺麗」

 気付いた時には、そう言葉にしていた。
 本当に本当に……綺麗だった。

「ねぇ、ジョー……。貴方が言っていた『見せたいもの』って、もしかして…」
「うん。ええと……、一度、この景色を君に見せてあげたいと思っていたんだ」

 ジョーは照れ臭そうに、彼女を此処へ……『見せたいものがあるから、一緒に来て欲しい』とだけ告げ、強引に彼女をこの借りたクルーザーの船内に押し込め、沖へと向かった理由を明かす。

 地中海沿岸にある、モナコ公国。
 言わずと知れたF1グランプリの開催地であり、表向きにはジョーはこの国で暮らしていることになっている。
 それは、自分達の素性を隠す為の、措置。
 だが、本当にモナコには彼の住むマンションがあり、時々はその部屋で過ごしているから、全くのデタラメというワケでも無い。

 滞在時間で比較するなら、日本にある家(研究所)とは全く比べ物にならないし、フランソワーズや博士や仲間の待つ家の方が大切だ。
 けれど、ジョーにとってこの国は、日本に次いで大切な場所になりつつあった。

 だからこそ……彼女をこの地に誘った。

「本当は、F1の開催期間に誘いたかったんだけど……」
「ううん。そんなこと気にしないで…」

 申し訳なさそうな彼の言葉に、フランソワーズは首を横に振り、優しい笑みを浮かべる。

 世間に顔と名前が知られている自分達が、F1開催中にこんなに堂々とデート出来ないことは、フランソワーズも充分に分かっていた。
 自分達が恋人同士であることは……秘密にしなければならない。
 ―――お互いのために。

(でも……それならそうと、言ってくれたら良いのに…)

 今まで何も聞かされず、1人きりでただただ船室に閉じ込められていたフランソワーズは、拗ねた視線で彼を見据える。
 だが、一呼吸後、直ぐにその表情を和らげた彼女は、再び慈愛に満ちた笑顔を向けた。

 シャイで、自分の思っていることの半分も…いや、殆ど言葉に変えられない彼が、巧みな言葉で……自分に不信感を抱かせずに此処へ誘導させるなんて、そんな芸当が出来る筈が無い。
 そして、そんな彼だからこそ―――自分は惹かれたのだ。

「あ、寒くないかい? 上着、船室(下)から取って来ようか?」
「平気。お日様と風が、すごく気持ちイイわ」

 薄着の自分を気遣ってくれる彼の優しさが嬉しくて、何となく恥ずかしくて、フランソワーズは彼から少しだけ離れると、瞳を閉じる。

 ふわり……

 穏やかな海面を渡って来た風が、彼女を包み込み、その美しい亜麻色の髪と洋服のリボンを靡かせる。


Of what do you think now …?


「………。」

 彼女を包み込む……いや、彼女が身に纏う大気があまりに清浄過ぎて、ジョーは呆けたように見惚れる事しか出来なかった。
 幸せそうな彼女を見ていると、それだけで心が和み、幸せであたたかな気持ちになれる。

 こんなふうに……彼女にはずっと笑顔でいてもらいたい。
 いや―――彼女の笑顔は…

(僕が……守ってみせる……)

「こんなに気持ち良い風は、初めて、だわ」

 ジョーの密かな決意に気付く事無く、フランソワーズは閉じていた瞳を開くと、海面で乱反射する光や美しい街並みをうっとりと眺める。
 そんなフランソワーズの横顔をちらっと盗み見て、ジョーは満足げに微笑(わら)った。

「気に入ってくれたかい?」
「もちろんだわ…」
「良かった。君が此処を気に入ってくれて……」
「え?」

 風と波の音に掻き消されそうな彼の小さな呟きを、フランソワーズはしっかりと耳にし、驚いて彼へと振り向く。
 と、ジョーは、ふいっと照れ臭そうに彼女から視線を逸らし、遠く…モナコの街並みの先にある、大いなる空へと視線を馳せた。

 此処は――― 一流のレーサーを目指すものであれば、誰もが憧れる地。
 世界中から30万人もの人が集まるレース開催日とは比べものにならないが、この街はいつでも華やかで、独特の時間が流れている。
 そんな独特の雰囲気に包まれているせいか……この街は、混血で孤児の自分を差別したりすることもなく、1人の人間として扱ってくれる。

「昔……初めて此処に来た時に、いつか……この街で暮らしたいって思ったんだ」
「此処に? 故郷(日本)じゃなくて?」
「ああ」
「どうして?」
「……どうしてかなぁ」

 ジョーはおちゃらけた言葉で誤魔化す。

「日本は……嫌いだったの?」
「嫌いじゃないよ。う〜〜〜ん、何て言ったら良いかなぁ……、あの頃は、日本に居たらいろんなものに押しつぶされる気がしていたんだ。だから、此処なら1から始められると思ってさ。それまでの思い出とか、柵とか、そういうものを全て捨てて……」
「……今も、そう思ってる?」
「1から始めようとは思っていないよ。でも……此処に暮らしたいとは思ってる、かな」
「え? ジョーは………此処で暮らしたいの?」

 突然の彼の告白に、フランソワーズは驚くと同時に哀しくなる。
 今まで、彼は研究所で……仲間達や自分と共に暮らすことを望んでくれているのだと、そう信じて疑わなかった。
 現に以前、研究所が「僕の家」だとも言っていたのに……。
 彼は、本当は研究所じゃなく此処で1人で暮らしたいと、ずっと…そう思っていたのだろうか。

(でも、それが……ジョーの、望みなら……)

 自分には彼を引き止める権利なんて無い。

 研究所で暮らせば、嫌でも自分が『サイボーグ』である事を色濃く感じなければならない。それが彼に苦痛で無い筈は無いし、他の仲間達だってそれぞれに自分の居場所を見つけ、そこで暮らしているのだから、彼だけが『研究所』という柵に縛られる必要も無い。
 それに、F1レーサーとして更なる活躍をする為にも、その方が良に決まっている。
 
「ジョーが……そうしたいの、なら……私は……」

 寂しさを無理に隠して、フランソワーズは彼の望みを後押ししようと、懸命に言葉に変える。
 が、その途中で、ジョーは彼女の肩に……その透き通るような白い柔肌に触れ、捕らえると、ぐいっと強引に自分へと導いた。

「あっ…」

 バランスを崩したフランソワーズは、吐息混じりの小さな悲鳴を上げながら、まるで吸い込まれるように彼の逞しい腕の中へすっぽりと納まり、包まれる。

 溶け合う―――ぬくもり
 共鳴し合う―――鼓動

「フランソワーズ…」

 愛しい名を声にしただけで、心も躯も更に高揚し熱くなるのを自覚しながら、ジョーは敢えてポーカーフェイスを貫き、腕の中の彼女に囁く。

「僕と一緒に……この街で暮らして欲しい」
「えっ……」

 思い掛けない彼の言葉に、フランソワーズはぴくっと身体を震わせ、おずおずと彼を見上げる。
 そこにあったのは……どこか照れ臭そうな…それでいて、何処までも優しい彼のブラウンの瞳だった。

「拠点は今まで通り研究所で良いんだ。研究所で暮らすのが嫌な訳じゃないから、ね」
「それじゃ、どうして?」
「うん………。これは、僕のワガママでしか無いんだけど……」

 ジョーは頬を赤らめながらそう言葉を濁し、こほん、とひとつ咳払いをする。

「研究所は僕達皆の『家』だろ? そういうのもイイけど……あの、さ………2人だけの『家』があっても……イイかな、なんて……」
「2人だけの『家』?」
「うん。だから………ええと、つまりは……気持ちの問題、かな。この街を僕等の新しい故郷にしたいんだ」
「新しい、故郷?」
「ああ」
「どう…すれば良いの?」
「簡単だよ。ただ…時々、此処に『帰って』来れば良いだけ、だよ」

 『訪れる』のでは無く、この地に『帰って来る』。
 そして、此処で2人で……2人だけの時間を過ごして、掛け替えの無い大切な思い出を築いていく。
 その思い出達が、やがて……この地を自分達の本当の『故郷』に変えてくれる。

「ジョー……」

 充分とは言えないジョーの説明。けれど、フランソワーズには彼が何を望み、何に憧れているのか、ちゃんと伝わっていた。
 …………痛いほどに。

「此処ならフランスからもそう遠くないし、F1も半分はヨーロッパだから、僕もその間は此処で暮らす事が多いし……。イヤ、かい?」

 フランソワーズの碧い瞳が、まだ不安げに潤んでいる事に気付き、ジョーは小首を傾げ彼女を覗き込む。

「そんな、イヤだなんて……」

 フランソワーズは首を横に振り、それから彼を上目遣いに見つめる。

「でも……本当に、私…此処でジョーと一緒に暮らしていいの? 迷惑じゃない?」

 此処モナコにある彼の部屋は、彼だけの場所。
 F1レーサー・島村ジョーの公の住まい。
 そこに自分が立ち入っても、本当に良いのだろうか。
 彼の迷惑にならないだろうか。

「迷惑なはず無いだろ」

 ジョーは、ふ、と微苦笑すると、一度フランソワーズを解放し、左手で彼女の右手首を捕らえ、掌を上にしながら胸の位置まで導きつつ、同時にもう片方の手で薄手のジャケットのポケットを探る。
 そこにあるのは、全く同じ形をした2つの小さな金属。そのうちの1つを、ジョーは彼女の手の中に落とす。
 それは―――2人だけの宝箱となる部屋の鍵。

「君が居なければ、『故郷』にはならないよ」

†† どうか…この穏やかな時間が、永遠に―― ††



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