~ time's magic ~



「本当にごめんね、フランソワーズ……。私のせいで、せっかくの貴重な時間を……」
「もう、カトリーヌったら……さっきから謝ってばかりじゃない。いいのよ、全然気にしなくて……」
「でも……」

 12月24日、フランス・パリ――。
 冷たい空気に澄んだ青空の下、フランソワーズはバレエ学校時代からの親友・カトリーヌのアパルトマンを訪ねていた。
 永い永い闘いの日々を終え、つかの間の平和な時間を仲間たちとともに日本のギルモア研究所で過ごしていた彼女は、もう少し――心の整理がつくまで、しばらく故郷であるこの地に赴くつもりはなかったのだが……。

「私がもっとよく気をつけてさえいれば、あなたに迷惑をかけることも……」
「そんな、迷惑だなんて……! ずっとまともなレッスンを受けていなかった私が、まさか突然オペラ座でのクリスマス特別公演の主役を踊れることになるなんて、思ってもいなかったわ」

1週間ほど前、パリでバレエを続けているカトリーヌからその彼女の元へ、練習中に起きた事故で右足にケガを負ってしまった自分の代わりに、急遽代役を引き受けて欲しいとの国際電話が届き――。
 フランソワーズは翌18日から、本番である今日という日の前に少しでも多くのレッスンを受けるためにフランスへと還って来たのである。
 以来、彼女は毎日朝早くから夜遅くまでレッスンに通い続け……フランスへ戻ってから実際にカトリーヌに逢う(お見舞いに来る)ことができたのは、本番前に空いたこの僅かなフリーの時間が初めてだった。

「この短期間の間に、私がもらったあの役を――天才振付師として有名なグレイ先生のオデット姫をマスターできる可能性がある人は、フランソワーズしか思い浮かばなかったから……。先生方が代役を決めようとしていたあのとき、つい咄嗟にあなたの名前を出してしまったの。あなたの実力をよく知っているアズナブール先生も、私がずっと行方不明になっていたあなたの名前を代役候補として挙げたときこそすごく驚いていたけど、『あなたと連絡が取れるなら……』って、すぐに私の意見に賛成してくれて……」

 ベッドの上で上半身だけを起こしたまま、カトリーヌが俯き加減に先を続ける。

「あのときは……本当に必死だったの。私のせいで大事な舞台に穴をあけるなんて、絶対にそれだけは許されない、って。だけど……だからといって、それがあなたを巻き込んでいい理由にはならないことくらい、冷静になればすぐにわかることなのに……」
「そんなに自分を責めないで、カトリーヌ。こんな素敵なチャンスをくれた大切な親友と、お世話になった……ううん、これまでの詳しい事情を話すことすらできない私に、何も訊かず今でも変わらない指導を続けてくださるアズナブール先生の頼みですもの。……断ることなんてできないわ」

 シーツをギュッと握り締める両手から視線を逸らさずに告げるカトリーヌに、ベッドの横の椅子へ腰掛けたフランソワーズは、優しく微笑みながらそう言った。

「あ、そうそう、ここに来る途中でケーキを買ってきたの。フィリップの分もあるんだけど……彼はまだ?」
「ええ。彼、今日も昼間は仕事だから……。でも、終わったらすぐに、夜の公演に間に合うよう迎えに来てくれることになってるの」
「それじゃあ……私たちは一足先にいただいちゃいましょうか。ちょっとキッチン、借りるわね」

 フランソワーズは小さくウィンクすると、後ろのテーブルの上に置いておいた白い箱を手にして立ち上がった。

「もし……」
「……えっ?」

 聞き逃してしまいそうなほど微かな声でつぶやくカトリーヌに、フランソワーズが振り返る。

「――もしも今日が普通の……いつもと変わらない日だったとしたら、私ももっと……!」
(あ……!)

 その瞬間、フランソワーズは突然理解した。
 なぜカトリーヌがこれほどまでに自分自身を責めようとするのか――。
 彼女は、フランソワーズに急遽自分の代役を頼んでしまったということよりも、むしろ今日……このクリスマス・イヴという日にフランソワーズを束縛してしまったことを何よりも悔やんでいたのである。

「……約束……あったんでしょう? 『彼』との……」

 おずおずと顔を上げたカトリーヌの小刻みに揺れる茶色の瞳と、フランソワーズの蒼い瞳とが緩やかに交錯する。
 フランソワーズはその真っ直ぐな視線から半ば逃れるようにして、何も言わずに奥のキッチンへと姿を消した。

「……フランソワーズ………」

 しばらくの間、キッチンからはカチャカチャと食器を並べる音だけが響き――。やがて、カップにお湯を注ぐ音ともに、普段よりもさらに穏やかなフランソワーズの声がカトリーヌの耳へと届いた。

「ありがとう、カトリーヌ……心配してくれて……。実はね、あの日――最初はジョーもこのクリスマス公演を観に一緒にフランスへ行く、って言ってくれてたの。でも……」

 ジョーとフランソワーズが仕度を終えて成田空港へ向けて出発しようとしたまさに直前、ジョーのレーシング・チームのメンバーから、彼に緊急の呼び出しが掛かってしまったのだった。

「2週間後に控えた今度のレースの主催者側で、すごく大きなトラブルが発生してしまったみたいで……。ジョーだけじゃなく、そのレースに参加する関係者はそのとき全員呼ばれたらしいわ」
「だ、だけど……! それって、1週間も前の話でしょう?」
「それがね、3日前にあったジョーからの電話では、どうやら主催者側からの正式なオファーと改正プログラムが出たのがそのほんの少し前で……。とにかくすべてのチームが25日の午前0時までにセットアップを終わらせて、その1時間後、一斉に最終チェックのための合同テストをすることが決まったらしいの」
「そ、そんな……」
「後の調整を考えると、レースに間に合わせるための最終ラインがその時間なのね、きっと……。だから……結局私が日本にいたとしても、ジョーと一緒のイヴは過ごせない運命だった。……カトリーヌが気にすることは本当に何もないのよ」
「……」

 言いながら、可愛らしい苺のショートケーキと紅茶をトレイに乗せて運んできたフランソワーズの笑顔の中に、微かな哀しい翳りが浮かんでいることを……カトリーヌが見落とすはずがなかった。
 しかし――いや、だからこそ。
 彼女には、フランソワーズに掛けるべき言葉が何も見つからなかった。
 そんな彼女の心の裡を知ってか知らずか、

「それよりも、カトリーヌのケガ……だいぶ良くなってきているみたいでホントによかったわ。脚はバレリーナの命だもの! ね?」

と、明るく振舞うフランソワーズの姿に、カトリーヌは親友の本当の優しさと、そして芯の強さを垣間見たような気がしていた。

「フランソワーズ……」





「いけない、もうこんな時間! そろそろリハに行かなくちゃ……」

 冬の太陽の陽射しが少しだけ傾いてきたころ――。
 お互いに積もる話を語り合う2人の前に、時刻の流れは無情にも舞い降りた。
 短いながらもとても楽しく有意義だった時間を惜しみつつ、ゆっくりと席を立つフランソワーズ。
 彼女は、カトリーヌが立てかけてあった松葉杖を取り、玄関まで見送ろうとするのを制して――黒のロングコートを羽織りながら力強くこう告げた。

「今夜の本番、カトリーヌの分までがんばって来るわね!」
「フランソワーズ! 私……必ず観に行くから!! 彼の……ジョーの分まで……!!」
「……!」

 ――フランソワーズの胸の奥が、どうしようもないほど熱くなる。
 カトリーヌのその言葉は、他のどんな言葉よりも彼女を勇気づけていた。

「ありがとう……」

 フランソワーズはそれだけ言って頷くと、パタンと静かに部屋のドアを閉めるのだった。









 舞台は、大成功だった。
 公演後の挨拶を行うフランソワーズたちへ、超満員に溢れ返った観客たちが思い思いに立ち上がって拍手喝采を送る。
 彼女たちが舞台を下りた後も、会場の熱気と興奮はしばらく冷めることを知らず――それが、この公演がとても素晴らしいものであったということを深く象徴していた。

「フランソワーズ! 本当に……本当に綺麗だったわ!!」
「カトリーヌ……!!」

 楽屋へと戻ったフランソワーズは、まず真っ先にカトリーヌと喜びを分かち合うと、どちらからともなく固く抱き締め合っていた。
 その微笑ましい光景を、フィリップやアズナブールたちが傍で暖かく見守っている。

「ありがとう、フランソワーズ……! 私……あなたに何て御礼を言ったらいいのか……!!」

 感極まって思わず涙を見せるカトリーヌに、フランソワーズが嬉しいながらも困惑したような表情でいると、奥からやってきたグレイも彼女に声を掛けた。

「いや、今日の舞台は今までのどの公演よりも素晴らしかった。カトリーヌがケガで踊れなくなってしまったときにはどうなるかと思ったが……。彼女がこうなってしまった今、君の存在なくしてこの結果を得ることはできなかっただろう。どうか私からも御礼を言わせて欲しい」
「グレイ先生……!」
「すごいじゃないか、フランソワーズ! あのグレイ先生がこんな風に誰かを誉めるなんて……滅多にないことだぞ!!」

 アズナブールが、まるで自分のことのように興奮してフランソワーズの肩をポンと叩く。
 フランソワーズは改めてグレイとアズナブールの方に向き直ると、蒼い瞳にうっすらと涙を浮かべながら『ありがとうございます』と優雅にひとつお辞儀をした。









 その後、団員たちとの打ち上げパーティーに参加するというカトリーヌやフィリップ、アズナブールたちの誘いを丁寧に断って――フランソワーズは1人、自宅への帰路についていた。
 どんなことがあっても24日の夜のうちに必ず電話をすると、ジョーがこの前の電話でフランソワーズに約束していたのだ。
 パリの街並みでは、色とりどりのイルミネーションがイヴの夜を美しく飾っている。
 鮮やかな夜景をひとりぼっちで見つめ、幸せそうな恋人たちとすれ違うたびに……フランソワーズは心の中にぽっかりとあいた穴の寂しさを埋めることができなくなってゆくのを痛いほど感じていた。

(カトリーヌの前では、強がって見せていたけれど――)

 雑踏をすり抜け、街灯のみに照らし出された薄暗い路地を、ほんの少しだけ早足で進む。

(聖なる夜に、心から一緒にいたいと願うのは――たったひとりの人だけなのに……)

 急に静かになった辺りには、枯れ果ててしまった街路樹たちがひっそりと立ち並び、大地に広がった少量の落ち葉が冷たい風に踊っていた。

(その唯一の大切な人と離れ離れでいなければならないなんて……どうして神様はこんな意地悪をなさるのかしら……)

 広場の階段を下りて、兄も仕事で留守のためにひっそりとした家の前へとたどり着いたフランソワーズは、バッグの中から薄紫の羽根飾りに彩られたカギを取り出し……そっと瞼を閉じて祈った。

(お願い、ジョー……せめて早くあなたの声を聴かせて……)

 そんなとき――ドアノブに手を掛けたフランソワーズの頬に、一瞬だけ何か冷たいものが触れた。

「あ……」

 ふと顔を上げると、今にも吸い込まれてしまいそうな深い藍色の天から、真っ白のひらひらとした贈り物が無数に降り注いで来る幻想的な景色が瞳に映る。

「雪……!」

 どこまでも果てしなく続くこの空のずっと向こうでは、もしかしたらジョーも同じ空を見上げているかもしれない……。
 そんなことを想いながら――フランソワーズは白い輝きを一身に浴び、数分の間ただじっと黙ってその場に佇んでいた。









 フランソワーズが帰宅してから2時間――。
 夜の11時を回っても、未だジョーからの電話は掛かっては来なかった。

「今ごろジョー……きっと追い込みで一番大変なころだわ……」

 2階の自分の部屋でテーブルに頬杖をつきながら、ジョーの姿を思い浮かべては誰にともなくつぶやいてみる。
 そして……。





 もう何度コーヒーを入れ直し、何度電話の前でため息をついただろう――。
 つと時計を見遣ると、白い壁掛け時計の針は11時55分を指していた。

(もう今日は……電話はないのかも……)

 そう、フランソワーズが諦めかけたそのとき――。

 trrr……。

(電話……! ジョー!!)

 ――瞬間、パッと顔を輝かせたフランソワーズは、2コール目が鳴り始める前に急いで外線のボタンを押した。

「はい、もしもし……あ、ジョー?」
『フランソワーズ? 遅くなってごめん……。まだ……起きてた?』
「ええ……もちろん!」

 思わず涙声になりそうなのを必死になって堪えながら、フランソワーズは両手で受話器を包み込むようにして何度も頷いた。
 そうして――実際にはお互いのぬくもりを感じ合うことができない分、心を寄せ合いながらいくつもの言葉を交わすうちに、2分ほどの時間が過ぎ――。

『今年は、いつもよりも寒いのかな……。本当のホワイト・クリスマスになったね』
「東京でも、雪が降ってるの?」
『いや、向こうは……どうだろう』
「え……?」
『さっきまで澄んだ夜空に星がよく見えてたから……降ってはいないんじゃないかな』
「ま、まさか……!?」

 絶対にあり得ないことだと自分に言い聞かせながらも――高鳴る鼓動を抑えきれない。
 フランソワーズはコードレスの受話器を持ったまま慌てて窓辺へと駆け寄ると、淡いブルーのカーテンを勢いよく開け放った。

「……!!」

 吐息に曇るガラス越しに、下を覗き込んだ彼女の瞳に映ったもの――。
 もうすっかり周りの景色を白く染め上げた粉雪の舞う中……決して見間違えるはずのない、この世界で最も愛しい人の姿がそこにはあった。

『ジっ…ジョー……!! どうして……!?』

 携帯電話から聴こえてくるその声には応えずに、ジョーはやっと自分の瞳に捉えることができたフランソワーズを、この上なく優しい眼差しで見つめ続けていた。







 ふとその視界から彼女が消えたかと思うと、間もなくカギを開ける音ともに玄関のドアが開かれた。

「11時58分。よかった……ギリギリ間に合ったね」

 腕時計に目を遣りながら言うジョーのそばへ、セーターにショールを羽織っただけのフランソワーズが一歩一歩彼の存在を確かめるように歩み寄る。

「だ、だって……25日の午前1時からテストが始まるって……!」
「うん……日本時間の、ね」
「あ……!」

 ジョーの言葉を聞いた途端、フランソワーズはハッとなって自分の唇を両手で覆った。
 そんな彼女にジョーは、

「やっぱり、気づいてなかったんだね。……って、ボクも気がついたのは、24日の昼過ぎくらいになってからだったんだけど……」

と、亜麻色の髪や肩に次々と降り積もる雪の粉を手で払いながら微笑んだ。

「じゃ、じゃあ……!」
「1時からのテストを終えて、ストレンジャーを飛ばして研究所に帰った後、すぐにそのままドルフィン号に乗り込んで……。初めてドルフィン号を1人で独占しちゃったよ」
「ジョー……!!」

 照れくさそうに微笑うジョーに、次の瞬間――。フランソワーズは思わず彼の逞しい腕の中へと飛び込んでいた。
 ジョーもそれを待ち望んでいたかのように、彼女を優しく抱きとめる。

「信じられない……まるで、時の魔法にかけられた夢を見ているみたい……」
「もしも夢だったら……こんな風にキミのぬくもりを感じることはできないよ……」

 溢れ出す愛しさにゆっくりと瞳を閉じたジョーは、フランソワーズの柔らかな髪に顔を近づけ、彼女を抱く腕に力を込めた。
 フランソワーズの蒼い瞳から零れ落ちた涙が、ジョーの胸元をほんのりと濡らしてゆく。

「ごめんよ、フランソワーズ……。今日はクリスマス・イヴなのに、ボクはキミに何も……」
「ううん……いいの! あなたは今夜、私に最高の奇跡をプレゼントしてくれたわ。これ以上欲張ったりしたら、神様がせっかくの魔法を解いてしまうかもしれないもの……」
「フランソワーズ……」

 2人が熱い視線を絡ませ合ったそのとき――クリスマスを告げる午前0時の鐘が、パリの街を包み込むよう静かに響き渡った。

「あ……」
「メリー・クリスマス。フランソワーズ……」
 ジョーが小さな甘い声で、うっすらと赤く染まったフランソワーズの耳元に囁きかける。
「……メリー…クリスマス………」

 フランソワーズがそう言い終わるのとほとんど同時に――ジョーはもう一度彼女の華奢な身体をぐっと抱き寄せると、微かに震える桜色の唇を自分の唇でそっと塞いだ。
 はらはらと舞い散る天使の羽根のように柔らかな雪が、重ね合った唇から熱い想いを伝え合う2人を、心から祝福するようにいつまでも降り続いていた。




                                    〜 Fin 〜

 

Back