t h r i l l  ~ vol.3 ~




「だ……ょう…い、フラ…ソ……ズ?」
「? え?」


 プラスチックのフェイス・カバー越し――数センチ先の目の前には、こげ茶色をしたジャンパーに覆われた広い背中。
 ふと何事か声が聞こえたような気がして蒼い瞳を上に向けると、自分と同じくフルフェイスのヘルメットを深く被ったままのジョーが小さくこちらを振り返っていた。


 赤信号を待ちきれず、シートの下で唸るエンジン。
 すぐ先の交差点を次々と休むことなく横切ってゆく無数の車。
 本来なら――数多くの騒音に遮られて途切れ途切れにしか聴こえないジョーの声も、フランソワーズがほんの少し『その気』になれば、彼の『言葉を聴き取る』ことは容易かった。
 ――けれど、彼女はそれをしないで……。
 たった一文字だけで尋ね返した言葉の中へは、『もう一度本当のあなたの声を聴かせて』……と彼女自身無意識のうちの願いが込もる。
 それは、ジョーにとっても同じだった。
 正確に……確実にフランソワーズへ自分の声を届けたいのなら、誰にも邪魔することなどできない『脳波通信』を使って彼女と『会話』をすればいい。
 けれど、彼はそうすることなく――。
 今度はヘルメットの透明なマスク部分を指でくいと上げてから、もう一度先程と同じ言葉をフランソワーズに優しく投げ掛けた。


「……いや、『大丈夫かい?』って訊いただけ。フランソワーズの手がボクのジャンパーの裾の同じ所を掴んだまま動かないから、ちょっと心配になって……ね」
「あ……」
「何しろ、突然キミをあんな風に連れ出した上に……ここまでずいぶん、飛ばしてきちゃったから」
「もう……ジョーったら!」
 お互いにとって誰よりも大切な人との……ごく限られた平和なひととき。
 ……だからこそ、今はサイボーグであることを忘れ、1人のごく普通の人間として――。
 ジョーも、そしてフランソワーズも。心から強くそう想い合う2人の気持ちが、自然と彼らを『こう』振舞わせている……のかもしれない。
「私なら大丈夫よ。ただ、ジョーとバイクに……あ! う、ううん、バ……バイクの後ろに乗るなんて、初めてだから……」
 何だか少し……緊張しちゃって。
 そうつぶやいたフランソワーズは戸惑いながら照れたようにはにかむと、そんな表情をジョーから隠すかのように慌てて顔を下に背けた。


(――でも、あのときは本当に驚いたわ……)


 背後から隙を突いて、いきなり誰かの腕に絡め取られた――あのとき。
 瞬間的に……真っ先にフランソワーズの脳裡に浮かんだのは、『敵の来襲』だったのだが……。
 次に彼女が思わず身体を強張らせた刹那の感覚。
 彼女は確かに……その腕の逞しくも暖かな感触を知っていた。
 ……間違えるはずがなかった。
 でも……。


 ――その間、時間にしてほんの数秒。
 抱いてはいけない微かな期待と、果てしなく広がる絶望への不安とで押し潰されてしまいそうだったフランソワーズの心を優しく解き放ったのは、彼女が祈る奇跡を現実のものにした、紛れもないジョーその人の存在だった。


(信じられなかった……。まさかあの場にジョーが来てくれるなんて。それも、こんな風に……私を……)


 そして今、フランソワーズはこうして……此処にいる。
 今日というこの日、この時間、彼女が心から居たいと願い続けた、彼女だけの『特別指定席』。
 そっと手を伸ばせば、すぐに愛しい人へ触れることができる――世界でたったひとつしかない、ジョーのぬくもりに包まれたこの場所に……。


「ねえ、ジョー……ひとつ訊いてもいい?」
 薄暗くなってきた景色とヘルメットのおかげで、おそらく真っ赤になってしまっているだろう自分の顔も、きっとジョーにはわからない――はず、と思いつつも、フランソワーズは懸命に高鳴る胸を静めようと努め……それから顔を上げた。
「何だい?」
「私たち……いったいどこへ向かってるの?」
「うん、夕食にはまだ早いと思ったから……ちょっとね。とにかくもうすぐ……着けばわかるよ」
 2人の斜め左上方にある歩行者用の信号が、何度か点滅して青から赤に変わる。
 ジョーはそれだけ言って前へ向き直るとすぐに発進の準備を始めたのだが、しばらくしてからふと何かを思い出したように、再び後ろの彼女を見つめた。
「それよりフランソワーズ、もっと……しっかり掴まってて。何だかボクの方が……不安になって仕方ないよ」
「え? あ……え、ええ……」
 苦笑いを浮かべるジョーにフランソワーズはハッとなって恥ずかしそうに小さく頷くと、改めて深くジョーの腰に回した腕にぎゅっと力を込めた。
 お互いの早鐘のような鼓動が混じり合う、不思議な感覚。
 正面に見える信号が、青色に光る。
「じ、じゃ///、行くよ」
 ヴォオオオオオォォォン!
 ジョーとフランソワーズを乗せた黒いバイクは、宵闇に架かる街を風のように駆け抜けていった。









 冬の淡い夕暮れは、闇色に染まるのが早い。
 夜空に輝く、満天の星々。
 この季節、すっかり枯れ果ててしまった背の高い木々から、ところどころに垣間見える電灯の明かりが照らす人影は――2つだけ。


 高い塀と門に囲まれた静かな風景を見上げながら……ジョーと降りたバイクへ背を向けてヘルメットを脱いだフランソワーズが、誰にともなくぽつりと言った。
「ここ……サーキット場……?」
 驚いたように周囲を見渡すフランソワーズのヘルメットを、ジョーは未だバイクに跨ったまま何気なく受け取り、自分もゆっくりとヘルメットをはずす。
「今はシーズンオフだから、そんなに警備は厳しくないはずだけど……」
「きゃ!! ジっ、ジョー!?」
 ――いつの間に彼はバイクから離れたのだろう。
 ジョーは一瞬、唇に人差し指を押し当てる仕草をしてフランソワーズを後ろからひょいと抱き上げると、すぐ脇に聳えるようにして立っている壁を軽々と飛び越え……。
 そして、何事もなかったかのごとくレース場内の芝生の上へふわりと着地した。
「あ……」
 今日のジョーには驚かされてばかりのフランソワーズが、もう少しで自分の額へ触れてしまいそうな位置でさらさらと風に流れる栗色の髪を茫然と見つめている。
「カメラや警備員に見つからないように、気をつけて……」
 そんな彼女を知ってか知らずか。
 ジョーはフランソワーズの耳元で小さくそれだけ囁くと、その白くしなやかな手を引いて暗闇の中を走り出した。







「ちょっと、ここで待ってて」


 いくつかの関門を無事に潜り抜け、フランソワーズと共に目的の場所である大きなシャッターの前までたどり着いたジョーが、極力音を立てないように気を配りながら本来電動式である鉄の扉をゆっくりと持ち上げてゆく。
 やがて人1人が通れる分だけの空間が開かれると、ジョーに促されたフランソワーズがまず奥へ入り、その後をジョーが追った。
 再び閉じられたシャッターの隙間から洩れるほんの僅かな光と自らの感覚を頼りに、内部の明かりを灯すためのスイッチを探すジョー。


 ――カチッ。


「……っ!」
 暗闇から一転、突如眩しい白熱灯に照らし出されたその部屋は、フランソワーズが想像していたよりも遥かに広い空間だった。


 奥に見える紅い車と並んで、部屋の――いや、ガレージの中央に悠然と構えるのは、目に鮮やかな白いボディラインのマシン。
「こ、これ……もしかして、ジョーの?」
 蒼く澄んだ瞳を大きく見開いてそう尋ねるフランソワーズに、ジョーは微かに微笑みを浮かべながらゆっくりと頷いた。
「フランソワーズ……レースの応援に来てくれたときはいつも、『いつかボクのマシンを近くでよく見てみたい』、って言ってくれてたから」
「な……お、覚えててくれたの?」
「もちろんさ」
 言いながら……ジョーはおもむろに自分が着ていたジャンパーを脱ぐと、そっとフランソワーズの肩へ被せた。
「あ……ジョー……?」
「ごめんよ、フランソワーズ……もっと早く、こうしていればよかった。その服と薄手の短いコートだけじゃ……寒かっただろう?」
「ジョー……ありがとう。でも、心配しないで。私なら全然、大丈夫だったから……」
 ――彼女の言葉に、少しも嘘はなかった。
 ……むしろ、こうしてジョーに触れられていると、身体が火照って……熱いくらいで。
「それに私……すごく嬉しかった……。ジョーがああして……私のことを迎えに来てくれて……」
「フランソワーズ……」


 つと遠慮がちに汚れなき真っ白なボディへと手を伸ばしたフランソワーズは、夜の闇間に咲いたライトを一身に浴びて光り輝くジョーのマシンを改めてじっと見つめた。
「綺麗……このマシンで、あなたは風になるのね」
「……風に?」
「そう。いつもはそばで想像することしかできない私にも、やっと感じることができた……優しい風。だって今日は私も……ジョーと同じ風に乗せてもらったもの」
 ――始まりは、まるで映画のワンシーンのように……ね。
 フランソワーズがおどけたようにそう言うと、顔を見合わせた2人はどちらからともなくクスクスと笑い出した。


「ね、ジョー……少しだけ……目、瞑ってくれる?」
「えっ?」
 ふいに――何の前触れもなく。フランソワーズの艶やかな桜色の唇から告げられた願いに、ジョーが一瞬目を丸くする。
「こ……こうかい?」
「くすっ……絶対に開けちゃダメよ」
「う、うん……」
 視覚が遮られた分だけ、残された他の感覚が研ぎ澄まされたように鋭くなる。
 微かに耳に届く、厚紙が擦れるようなガサガサという奇妙な音。
 フランソワーズがゆっくりと自分の方へ近づいてくる気配。
 鼻をくすぐる、彼女の甘い香り。
 ――そして。
「えいっ!!」
「っ!!?」
 突然、ジョーは自分の顔の周りを何か暖かくふわふわしたものが通り過ぎてゆくのを感じ。
 それに驚いて思わず開いてしまった彼の瞳は、すぐ目の前でいたずらっぽく微笑むフランソワーズの姿を至近距離で捉えていた。


 2、3度瞬きした後――ジョーが今も首のあたりに巻きついている『それ』の正体を確かめるため、視線を落とす。
「こっ、これ……手編みの……セーター……?」
 しばらくの間、焦ったように自分の首元とフランソワーズの顔とを交互に見遣るジョーを、黙ったまま見つめて。
 フランソワーズはこくん……と、恥ずかしそうに俯いた。


「ジョー……ずっと前に聞かせてくれたことがあったでしょう? あなたが小さい頃、孤児院に預けられていたときに……とても大事にしていた白い手編みのセーターがあったって。『それがお母様との唯一の思い出の品かもしれない』――そう幼いながらも思い込んで真剣だったあなたが、一時期、どんなに暑い日でもそれを身につけて離さなかったときさえあったこと……。それだけは、昔の記憶なんてほとんど忘れてしまった今でも覚えてるって」
「……フランソワーズ……!」
「ホントはね。去年のバレンタインのとき、ちゃんとあなたにこのセーターを……白い手編みのセーターをプレゼントしたかったの。本物ではないけれど、あなたにとっての思い出の品を――。でも……あっ」


 後から後から込み上げてくる熱い想いを抑えきれなくなったフランソワーズが、思わずジョーの瞳を見上げたその瞬間――彼女は彼の暖かな腕の中にいた。


 抱きしめられた白い毛糸の奥から伝わる、ジョーのぬくもり。


 こげ茶色のジャンパーの下には水色のシャツと黒のインナーしか着ていなかったジョーにとって、フランソワーズがくれた白色のセーターに袖を通したその姿は、まるで初めからコーディネイトされていたかのようにピッタリだった。
「あっ……あの……」
「フランソワーズこそ……そんな昔の話、覚えていてくれたんだね……」
「……ジョー……」
 咄嗟の出来事に、つい固くしていた身体をジョーに委ねて。
 フランソワーズは、自分の胸元に置いたままどうしていいかわからなくなってしまった両手をおずおずと彼の背中へ回した。
「……フランソワーズ………」
 ほんのりと冷たいジョーの右手の指先が、フランソワーズの熱い頬をなぞる。
「んっ……」
 彼の指の冷たさに――そして滑らかな動きに、彼女はピクッとその身体を震わせた。


(あ、また……)
 ――ひとつ見つけた、とジョーは思った。
 新しく見る……今までに見たことのない、フランソワーズの表情。


 ジョーは、そんな彼女の表情(かお)を心から愛しそうに自らの茶色い瞳の中へ収めると、そのまま細い顎に添えた指をそっと引き寄せ、その柔らかな唇に口づけを交わ――……そうとした、そのときだった。
 シャッターの外側から感じる人の気配に、フランソワーズが敏感に気づいたのは。


「!? ま、待ってジョー、だ……誰か来るわ!」
「えっ!?」


 確かに耳を澄ますと、そのざわめきは――だんだんと大きく近づいてきている。
「ホ、ホントだ……。おかしいな……今日は誰もこんなところへ来るはずないのに……あっ!!」


 ふと、そこまで考えたジョーの脳裡に『あること』が過ぎった。


「……ジョー?」
 急に顔色を変えるジョーに対し、フランソワーズが訝しげに首を傾げる。
「しまった……と、とにかく、早く隠れないと……!!」
「?」
「フランソワーズ! こっちへ!!」
「あ……ジ、ジョー!?」
 いったいどうしたの? と尋ねるフランソワーズを余所に、キョロキョロと辺りを見回したジョーは何も言わずに彼女の手を引くと、右奥にある控え室へのドアをひたすら真っ直ぐに目指した。


 ――パタン。
 と、彼がドアを静かに閉め終えたとほぼ同時に、無人となったガレージのシャッターがガラガラと大きな音を立てて引き上げられてゆく。





『あれ……? チーフ。ガレージの中、ライトがついてるみたいですよ?』
『何だ消し忘れか? ……ったく誰だぁ? しょうがねぇなぁ……。すみません、みなさん。どうぞこちらへ……』





 ガレージからドア越しに聴こえてくる声は、ジョーのよく知るレーシング・チームのメンバーのものだった。
 しかも、雰囲気から察するに……どうやらやってきたのは、1人や2人どころの騒ぎではないらしい。


「ジョー……これって……」
 真っ暗な闇の中――窓の外の小さな明かりにぼんやりと照らされたジョーの顔を少し不安げに見上げながら、フランソワーズが小声で彼に囁く。
「うん……じ、実は、今さっき思い出したんだけど……」


 数日前、ジョーは普段彼らが『チーフ』と呼び慕う現場責任者から、今度自分の所属するチームが特別にとある雑誌社の取材を受けることになった……という話を、『ウワサ程度』とは言え確かに聞いていたのだった。
 本来ならば、チームのトップレーサーであるジョーは、当然メインとしてこの取材に参加することになるはずであり、取材予定も詳しく知らされるはずなのだが……。


「ボクがそういうのをニガテにしてることを知ってるチーフは、ボクがそれに参加しなくてもいいように……上手く手配してくれたんだ。だけど、まさかそれが今日だったなんて……」


 もしも2人がガレージの彼らに見つかってしまった場合、ジョーたちがこっそりここに『忍び込んだ』件がチームメイトや警備員にバレることなど、この際最早問題ではなかった。
 最大の問題は、『ジョーとフランソワーズが一緒に、2人きりでここにいる』ことを『雑誌社の人々に知られる』ことにあったのだ。
 自らの素性を『謎』で通し、世界的にもトップレーサーとして活躍中の島村ジョーと、フランスの……しかも国際的に有名な美しきプリマドンナとが夜のガレージで密会、などということを彼らにスクープでもされたら――!!


 ――見つかるわけにはいかない。
 彼の話を聞いたフランソワーズも、事の重大さをジョーと同じように感じていた。
 ……がしかし、そんなジョーとフランソワーズの想いを嘲笑うかのように……。





『それじゃあ、そろそろマシンの取材はこの辺で……残りは、とりあえず奥の方へどうぞ。ここは寒いですからね』





「!!」
 この控え室の出入り口は、ジョーたちが入ってきたガレージとを繋ぐあのドアしかない。
 窓がいくつかある――といっても、それは採光や換気用に作られたもので、どれもとても人間が出入りできるほどの大きさは持っていなかった。
「ジっ……ジョー……!」
「……」
 つ……と一筋、ジョーの頬を冷たい汗が伝った。
 ドアが使えないとなると、あとは窓か壁を壊す以外にこの部屋から脱出する方法はない。
 他に隠れることができる場所と言えば……!





 ――ガチャ。……パチッ。





『さあ、どうぞ。適当な席へお掛けください』





 部屋の電気がつけられると、相変わらず薄暗くはあるジョーとフランソワーズが咄嗟に身を隠した『この場所』にも、微かな光は届けられていた。
 それに、『ここ』からなら、外の――部屋の内部の声も充分聴くことができる。


「だ……大丈夫かい、フランソワーズ……?」
「えっ、ええ……何とか……。でも、さすがにこの中に2人で入るのは……」
「……そうだね」


 ジョーがあの瞬間、フランソワーズを連れて隠れた場所。
 それは、控え室の壁際にいくつか並んでいるロッカーのうち、普段ジョーが使用している一番右端のロッカーの中だった。
 ジョーは日頃からほとんど、この大きなロッカーにあまり私物を入れておくことはしない。
 ――そのため、こうしてここには2人の大人が隠れられるスペースがどうにかあるわけなのだが……。
 やはり、いくらロッカーにしては広く作られているとは言え、人間が2人も入ってしまっては、中はもうどうにも余裕などないほどにいっぱいだった。


 狭い薄闇の密室で、互いに向き合うような形で息を潜めながら寄り添うジョーとフランソワーズ。
 ジョーの吐息がフランソワーズの亜麻色の髪にかかるたび、フランソワーズの甘い香りがジョーの鼻腔を刺激するたび――2人は『外の人たちに見つかってしまうかもしれない不安』とはまた違った意味での緊張感をこの上なく味わうのだった。


「と、とにかく、確かそう長い時間は取っていないはずだから、みんなが帰るまでここで……」





『ええっ? ジョーさん……今日はこちらにはいらっしゃらないんですか!?』





 ――ドキッ!!
 部屋からの女性の声が『ジョー』の名前を告げた途端、2人は思わず息を呑んだ。
 遠くの小さな隙間からジョーが身を乗り出すようにして中を覗くと、そこにはチーフと同僚のドライバーである悠二、そして見知らぬ男性と女性2人がテーブルを挟んで両側にそれぞれ座っていた。
 どうやらチーフたちの奥に見えるその3人が、雑誌社の人間らしい。





『そんな……せっかくジョーさんにチョコレート、渡せると思ってたのに……』
『チョコレート? おお、そういえば……今日はバレンタインデーか!』
『ホラ、ジョーさんって……あの素敵な容姿の上にすごくミステリアスなところ、あるじゃないですか? 今日お逢いできてお話することができたらみんなに自慢できるって、私たち……とっても楽しみにしていたんですよ!!』
『こらお前たち! 取材(これ)は遊びじゃないんだぞ!!』





「……ですって、ジョー」
 ロッカー内で耳を欹てていたフランソワーズが口元を抑えながら懸命に笑いを押し殺して言うと、
「フランソワーズ……! か、からかうのはよしてくれよ!」
 ジョーは心底慌てたような素振りで彼女に応える。


 ……と、そんなとき。
 赤いレーシングスーツに身を包んだままの悠二が、いきなりとんでもないことを言い出した。





『チェッ、俺はこんな日でさえマジメに仕事をしてるっつーのに……。よし、こうなったらいっちょ、ヤツの携帯に電話でもかけてみるか!』
『ジョーさん、携帯持っていらっしゃるんですか?』
『はは……残念ながら、番号を教えるワケにはいきませんけどね』





「!? いっ、いけない……!」
「ジョー、携帯って……今も持ってるの?」
「ああ、緊急連絡用のためにチームから支給されてるのがあるんだ。早く電源を切らないと、こんなところで鳴らされたりしたら……あ、あれ?」
「……ジョー?」
 狭いロッカーの中、ジョーは懸命に携帯を探して自分の腰の辺りを弄るが、それらしきものが見つからない。
「も、もしかして……ないの?」
「おかしいな、携帯どころかポケットが……そ、そうだ! フランソワーズ、キミが着てるそのジャンパーの中だ!!」
「ええっ!?」





『え……と、島村……島村……と』





「ポっ、ポケットなんて……どこにあるの!?」
「確か両脇の腰のところに、大きなポケットがあるはずなんだけど……」
 さすがにこの暗闇と狭さの中では、むやみにフランソワーズの身体を触るわけにはいかない。
 ジョーは何とか逸る気持ちを抑えてはいるものの……思うように動くことができないもどかしさが彼に焦りを与えていた。
「……あ、ポケット……はあったけど……え? な、中には何も入ってないわ!」
「!? そっ、そんなはずは……」





『おっ、あったあった』





 ピッピッ……。
 外から聞こえてくる機械音に対し、ますます焦燥感に駆られる2人。
 場合が場合なので仕方なく、ジョーもフランソワーズと一緒にジャンパーから携帯を探すことにする。
「そ、そこにないとしたら……じゃあ、胸の内ポケットに……」
「きゃあっ!///」
「!! ごっ、ごめん……///」





『よし、繋がっ……ん?』


(――お客様のおかけになった番号は、電波の届かない位置におられるか、または……)


『ダメだ〜〜〜。ジョーのヤツ、繋がりゃしねぇ。ったく、これが緊急連絡だったらどーすんだっつーの……』





「……はぁ」
 チームメイトの彼が諦めて電話を切った途端、ジョーとフランソワーズの唇からは同時にため息の声が洩れた。
 間一髪、ジャンパーの内ポケットから携帯を取り出したジョーが、すかさず電源をOFFにしたのだ。
「あ……危なかったわね……」
「一応、ギリギリセーフ……かな」





 それから後――。
 約30分もの間続いた5人の取材作業は、ここに来てようやく終わりを告げようとしていた。





『どうも今日はいろいろとありがとうございました』
『いえいえ、こちらこそ……』





 そんな外の会話を聞きながら、ぴったり寄り添い合ったままのジョーとフランソワーズが思わず苦笑を浮かべた顔を見合わせる。
 やっと……あの携帯電話の一件以外は『何事もなく』、このロッカー(ここ)から解放される。
 このとき、2人はそう信じて疑わなかった。
 ――それなのに。





『すみません悠二さん、このジョーさんの分のチョコレート……せっかくですからジョーさんに渡しておいていただけませんか?』
『ああ、それならアイツのロッカーに入れときますよ。次にアイツが来るとき、俺、会わないかもしれないんで』





「!! ウ、ウソ……!」
「ゆっ、悠二……っ! ……っ、次から次へと……!!」


 当然のことながら、内側からカギの掛けられるロッカーなど存在しようはずがない。
 それは、つい先程、2人が『何事もなかった』ことへの安堵感を覚えた矢先に待ち構えていた予想外の出来事(アクシデント)だった。


「……フランソワーズ……少し身体をこっちにずらせるかい?」
「や、やってみるわ……」
 ジョーは、何とかして彼がロッカーを開ける前に、内側から扉が開かないよう押さえるつもりだった。
 しかしそのためには、この狭すぎる空間の中、扉側にいるフランソワーズと少しでも位置を変えて、扉まで満足に手を伸ばせる状態にしなくてはならない。


「……ど、どう……?」
「待って……もう少しで……」
 中から引っ張るにちょうどいい――突き出したフックに届きそうなのだが、あと僅かに数センチほどジョーの左手はそれに届かない。


 ……近づく足音。
 迫る気配。


(……くっ!)
「あっ」


 ――瞬間。
 意を決したジョーは、ぐいと思い切りフランソワーズの身体を自分の方へと引き寄せた。
 知らず赤く染まったフランソワーズの頬が、耳が、さらにジョーの胸に深く埋まる。
 心臓の鼓動が……早く、熱い。


「……届いた!!」





 ガチャ、ガチャ。





『……と、あれ、開かねぇや。おかしいな……この前資料(データ)をここに入れたときはアイツ、カギなんて掛けてなかったのに……』
『なら、それはワシが預かっておくとするか』
『チーフ、ネコババはダメですよ』
『くぉら悠二っっ!!』





 ――パタン。





 再び夜の闇と同化した控え室から、人の気配が徐々に遠ざかってゆく。


 ……緩やかに流れる、しばしの沈黙。
 2人がやっとのことでロッカーから抜け出したのは、チーフたち5人が確実に部屋から離れたことを確認した数十秒後のことだった。


「フランソワーズ……大丈夫だったかい?」
 ずいぶんと疲れているだろう彼女を椅子に座らせ、深いため息を吐いたジョーが遠慮がちに尋ねる。
「ええ、私は……それより、ジョーの方こそ大変だったんじゃ……」
 2人ともが無理な体勢を取らざるを得ないあの状態の中でさえ、ジョーが自分の身体をずっと影ながら何気なく支え続けてくれていたことに……フランソワーズは気づいていた。
 しかし、ジョーはそれについては何も告げず……。
「何だか……とんでもないバレンタインになっちゃったね」
 と、さりげなく話を逸らすのだった。
「ふふっ……でもきっと、今日のことは……私たち、絶対に忘れられないと思うわ」
 そう、上目遣いでジョーを見上げたフランソワーズがくすっと微笑みを洩らすと、彼もその笑顔につられたように微笑い出した。
「……じゃあ、少し遅くなっちゃったけど……。しばらく休んだら、フランソワーズお勧めのお店――案内してくれるかい?」
「え……っ?」
「まだ夜は長いんだ。これまでの分、しっかり取り戻さないとね」
「ジョー……!」





 冷たい空気が漂う澄んだ空には、永遠にその姿を変えることのない多くの星座たちがキラキラと輝いている。
 ジョーとフランソワーズ――2人きりのバレンタインデーの夜は、まだ始まったばかりだった。



                                     ~ Fin ~

 

Back / Novel MENU