t h r i l l ~ vol.1 ~



「これで……完成!」
 フランソワーズが嬉しそうな表情(かお)で小さくそう叫んだのは、カーテン越しに淡い月明かりが差し込む1人きりの彼女の部屋。
 蒼い瞳が見つめる先――。
 彼女が目の前に掲げた両手からは、まだ編み棒がついたままの真っ白いふわふわのセーターが広がっている。
「よかった……何とかギリギリ間に合って……」


 ――『2月14日』。
 この日が日本ではどういう意味を持つ日なのかということを……昨年のフランソワーズは、その約5日くらい前にバレエ学校の友人たちから教えてもらうまでまったく知らなかった。
 もっと早くにわかっていたら……。
 去年の今ごろ、心から大切な人への贈り物を一生懸命に考えながら、彼女は何度そう思ったことだろう。
 以前『彼』から聞いた『あの話』がずっと心に引っかかっていた彼女には、その特別な日を理由にしてどうしてもプレゼントしたいものがあったのだが……。
 それを完成させるためには、どこをどう計算しても時間が足りなかった。
 だからこそ、フランソワーズは――今年のバレンタインには、きっとジョーに手編みのセーターを! と、1年前から固く心に決めていたのだった。


(ずいぶん前からちゃんと準備を始めてたのに……)
 ひとつひとつ、編み目を確かめるようにしてセーターを抱き寄せたフランソワーズが、ふと微かな笑みを洩らす。
 今年は早くから『2月14日』を目指して計画が立てられる分、他のメンバーたちもバレンタインデーを知っているし――当然ジョーにも自分がバレンタインを知っていることがわかってしまっているため。
 何とか誰にも雰囲気を悟られないよう、ごく限られた真夜中の時間を少しずつ使っていたら……。
(もう何時の間にか明日が……ううん、今日が本番なんですもの)
 フランソワーズは、本棚の上に置かれた小さなカレンダーに視線を移した。
 ペンで柔らかく赤い印のつけられた、14という日付け。
 この日が彼女にとって――そしてジョーにとって、最もスリリングで緊張感漂う1日になろうとは……当の本人たちですら、まだ知る由もなかった。









「じゃあ……そろそろ行って来るよ」
 2月14日――昼下がりの午後。
 ジョーはそばにいる3人に向かってそう言うと、バレエのレッスンへ出掛けたフランソワーズを迎えに行くためゆっくりとソファーから立ち上がった。
 今ここに……ギルモア研究所のリビングいるジョー以外の『3人』とは、どこから探し出してきたのか、オセロゲームで勝負をしているジェットと張々湖、それに、ソファーの淵で頬杖をつきながら、その様子をおもしろそうに横から黙ってじっと観戦しているハインリヒのことである。
「はいな。今日は2人とも、夕飯はいらないアルよろしね♪」
「え」
 やけにあっさりと、さも当然のように掛けられた張々湖の言葉に、手にしていたジャンパーへ袖を通しかけたジョーの動作がピタッと止まる。
「『え』、じゃないだろ。お前まさか……このバレンタインデーっつう日に、ホントにフランソワーズを迎えに行くだけで真っ直ぐ帰って来るつもりじゃねえだろうな!?」
 どうやらあまりに予想外、と取れるジョーのその返答振りには、目下真剣勝負中のはずのジェットに、ゲームを中断してまで自分の方へと詰め寄らせてしまうほどの力が備わっていたらしい。
 そんな彼に対して、
「お、覚えてたんだ、バレンタイン……」
と、小さく作り笑いを浮かべながらたじろぐジョー。
「ったりめーだろ? 俺なんか、昨日ちょ〜っとサーキットに顔を出しただけで、もう大勢のファンのコやらレースクイーンやらからチョコレートの山が……」
「……おい。話の方向がだんだんズレていってるぞ」
 ついだんだんと調子に乗って来たジェットを容赦なく鎮圧したのは、ハインリヒの一言だった。
 彼の冷ややかな視線受け、
「わ、わぁってるよっ!!」
 ジェット、間に咳払いをひとつ。
「と……とにかく!! 実際のところはどうなんだよ!? フランソワーズ、何にも言ってなかったのか?」
「いっ、いや、それは……」
(――夕方、外から連絡を入れるまで……今日のことはフランソワーズと2人だけの秘密、のはずだったんだけど)
 心の裡でそうつぶやきながら、まさに興味津々といった表情で執拗に迫って来るジェットから何とか逃れようと必死に『言い訳』を探すジョーだったのだが……。
(さっきはせっかく……上手く誤魔化せそうだったのになぁ……)
 ため息混じりにジョーがチラッと視線をやったその先では、頬杖をついたままのハインリヒが何もかもを見透かしたような顔で微笑っている。
(……ハインリヒってば、こういうときに限ってホントに『最強』なんだよな……)



 ここ最近、公演を1ヶ月後に控え、レッスンに通う日が多くなっているフランソワーズのために、ジョーは自分がフリーのときにはなるべく彼女をレッスン先のバレエホールまで車で送ったり、迎えに行ったりすることにしていた。
 彼女のため――とは言ったものの、その半分くらいは彼女と2人きりの時間を少しでも多く過ごしたい自分自身のためだったりするのは……もちろん内緒にして。
 今朝もホール前で車を降りたフランソワーズと、いつものように帰りの時間を確認していると――3分の2ほど開けた助手席側の窓から、少し躊躇いがちに顔を滑り込ませた彼女が柔らかな声でこう言った。
『今日の夕方……私のレッスンが終わったあとの時間……ジョー、空いてる?』
 ……と。
 友人から美味しいフランス料理のお店を教わったから、いつも車を出してもらっている御礼に一緒に外で食事でも……。
 そう、フランソワーズは言っていたけれど。
 その嬉しい誘いが、よりにもよって『今日』という日に、と思うと、ジョーはどうしてもほんの少し……期待を持たずにはいられなかった。
 バレンタインデーの夜を、フランソワーズと一緒に2人で過ごせるなんて――。
 つい先程までは思いも寄らなかった展開に、込み上げる想いを懸命に隠しながらジョーがOKの返事を出すと、
『本当? それじゃあ夕方……楽しみにしててね。あ、そうだわ……今日は外で食事を済ませてくること――みんなには、合流した後から電話で伝えることに……しない?』
 そうしないと、ジョーも私も……いろいろ大変でしょ?
 まるで小鳥が小さくさえずるように、スッとジョーの耳元でそれだけ告げたフランソワーズは、彼が言葉を返す間もなくホールへの階段を軽やかに昇っていってしまった。



 そんな……1枚も2枚も上手な天使の後ろ姿を思い出しながら。
 ジョーは、ジェットのストレート一本槍な質問攻め、張々湖の微妙なラインの誘導尋問にハインリヒの無言の圧力、という波状攻撃の前に――ついに陥落した。


「な〜るほどねぇ。フランソワーズからの秘密の招待状ってヤツを、お前は先に1人でこっそり受け取ってた……とまあ、こういうワケか」
「ほっほっほっ、羨ましいのことアルね〜〜〜」
「ま、普段のそれはそれは大人しいお前さんたちから比べれば、まあまあ上出来かもな」
 3者3様それぞれの反応に、もともと上気気味だったジョーの顔がますます赤くなってゆく。
 所在なげに彷徨うジョーの視線が、早くこの雰囲気の中から抜け出したい、という彼の心情を痛いほど物語っていて――ジェットもハインリヒも思わずくっくっと含み笑いを堪えきれない。
 そろそろジョーを苛めるのもこの辺でカンベンしてやるか、とでも言わんばかりにハインリヒと目配せを交わしたジェットは、ジョーへ大きく気合いを送るべく、彼の左肩を自分の右手で力強く掴んだ。
「いいか、ジョー。一番オイシイところをお前に譲ってやるんだからな! 今日こそビシッと決めて来いよ!?」
「う……うん……」
 ――『今日』は、もし決めてくれるとしたら……ボクじゃなくてフランソワーズの方なんだけど。
 などと密かな反論を胸に抱きつつも、かろうじてその一言だけを答えたジョーは。
 やはり天使の囁きはこの上なく正しかったのだと痛感しながら、早急に部屋を後にするのだった。


「はぁ……。っとにわかってんのかねぇ……アイツは……」
 困ったような苦笑いを浮かべ、振り向いたジェットが改めてテーブルに広がる緑色の盤上へ眼を馳せる。
 ――すると。
「あ゙ーーーっ!! なっ、何だよこれっ!!?」
 つい先程までは、確かに互角の勝負をしていた――はずなのに。
 何時の間にか盤上での形勢は、張々湖の持ち色である白によってジェットの黒が今にも埋め尽くされそうな勢いだった。
「ズルはしてないアル」
「俺が証人だ」
 ハインリヒの話によると、張々湖の、ジェットがジョーを問いただしに向かった直後の一手が黒の急所であり、瞬く間に白が有利なこの情勢を作り出したのだそうだ。
「ほい、ジョットの番アルよ〜」
「くっそ〜〜〜」
 何とも余裕綽々にキセルを咥える張々湖に、ヒートアップするジェット。
 ふとそのとき――。


 トゥルルルルル……。


 と、ちょうど良いような悪いような際どいタイミングでリビングに置かれた電話が鳴った。
「はいはいはい、っと」
 半ばヤケになったジェットが、真っ先に受話器へその手を伸ばす。
「もしもし……お、フランソワーズか。……ジョー? ジョーならたった今、それはもういそいそとフランソワーズとの食事を楽しみに出て行ったぜ。……え? どうして知ってる……って、そりゃあアイツにヘタな隠し事を白状させるくらい、俺たちには朝飯前さ」
 つい先程までの苛立ちなどどこ吹く風で、得意そうにフランソワーズとの会話を続けるジェットの様子に、ハインリヒと張々湖がやれやれと肩をすくめる。
 が、そんな彼らがフランソワーズからの意外な言葉にその表情を強張らせることになるまでには……そう長い時間はかからなかった。



 ジョーとフランソワーズの永いバレンタインデーは、ここから始まる――。

 

Back / Next