Tesorito






「悪いこと……しちゃったかな」

 夜の街に煌く、色とりどりのイルミネーション。
 その溢れんばかりの無数の光が、大通りを緩やかなスピードで駆け抜ける1台の紅いスポーツカーと、それに乗る『2人』の姿をウィンドウ越しから鮮やかに照らし出しては流れてゆく。

「え……どうして?」

 その紅色の車の運転席――。
 ハンドルを片手で軽く握り締め、視線を前方へと向けたまま遠慮がちにつぶやいたジョーへそう尋ね返したのは、ふわりと羽織った淡いピンクのショールが美しい、薄紫のパーティー・ドレスに身を包んでちょこんと助手席に腰掛けたフランソワーズだった。



 ――21時30分。
 たとえ平日と言えども常に人や車通りの激しい都心の道路(みち)は、今日この時間も例外なく忙しない喧騒に包まれているのだが……。それでも、一向に車が前に進む気配の見えない『渋滞』という言葉が当てはまるほどの混雑に遭遇しなかったのは、とても幸運と言えるだろう。



「いや……」
 ジョーは少しだけ苦笑いするように眉を顰めながら、今こうしてフランソワーズが自分の隣に座っていることへの経緯を思い返した。
「……ボクが突然、何の約束もしてなかったのにキミを迎えになんて行ったりしたから……。あの後、彼女たちとどこかへ行く予定とかがあったんじゃないかと思って」
「くすっ……大丈夫よ。一緒にいた3人とも、楽屋で美香さんに挨拶したら、彼女に招待された打ち上げに参加させてもらうって言ってたし、それに……」
 そこで、ふとパール・ピンクのルージュに彩られた唇を止めたフランソワーズは、頬にかかったひとすじの亜麻色の髪を指先に絡め……。
「……それに、私はもともと……今日は早めに帰るつもりだったの」
「早めに……?」
 一瞬、ジョーがチラッと理由を訊きたそうな瞳を自分の方へ投げかけたことに気づいたフランソワーズだったが――。
 彼女は彼の整った横顔からわざと視線を逸らすようにして、左サイドを流れる窓の外の景色に瞳を馳せるフリをすると、うっすらとその窓ガラスに映り込んだジョーの姿を優しく見つめながら心の中でそっと応えるのだった。

(だって……今日は私さえ早く研究所に戻れば、久し振りにジョーとの時間がたくさん過ごせそうだったから……)





 ここのところしばらくの間、ジョーとフランソワーズはそれぞれが持つハード・スケジュールのせいですれ違いばかりの毎日を送らざるを得ない生活が続いていた。


 最大の原因は……約2週間後。
 時を同じくしてジョーにはイタリア・グランプリが、フランソワーズにはロシアでの大きなバレエ公演が控えているためであった。
 研究所には『他のみんな』もいるのだから、2人きりになれる機会は普段から少ないのだけれど……。
 曲がりなりにも、ジョーとは『ひとつ屋根の下』に暮らしているはずなのに。
 ふとした瞬間、平和なときほど彼と同じ時間を共有することが難しくなってしまう現実の理不尽さに身をつまされると、フランソワーズは決まって言葉では言い表せない……複雑で、不穏で、どこか切なさにも似た感情が胸の奥に燻るのを感じずにはいられなくなるのだった。

(だから……さっきホールの前であなたの姿を見つけたときは、本当に嬉しかった。まさか私を迎えに来てくれてるなんて……思いも寄らなかったから)

 公演が終わり、フランソワーズが友人たちと客席を出て楽屋へ向かおうとしたあのとき――。
 まだそこでは逢えるはずのない男性(ひと)が、幻ではなく確かに彼女の視界の奥で、はにかみながら小さく右手を振っていた。
 彼女には、行き交う大勢の人込みの中、彼の立っている場所だけが色鮮やかに映し出されて見えた。



(……前はずっと……少しでもこんな風に、あなたのそばにいられるときがあればそれだけで、って……そう、思ってたのに……)

 ジョーへの想いが強くなればなるほど、どんどん欲張りになってゆく自分。
 彼が見えない寂しさや切なさに負けてしまいそうになる度に、心だけでなく――身体までもが彼のぬくもりを求めてしまう。
 自分がこんなにも弱くて、こんなにも独占欲の強い心の持ち主だったなんて……彼に出逢わなければ、きっと今も知らなかった。



 ――最初は、目の前で否応なしに繰り広げられ続けるあまりに凄惨で非現実的な出来事から少しでも逃れ……折に触れてはその重すぎる真実に押し潰されてしまいそうになる自分を護ろうと、彼の強さや優しさに縋って……ただ甘えていただけだったような気がする。
 どことなく――彼は兄さんに似ていたから。
 でも……。
 いったいいつの頃から自分の中で『009』は『ジョー』へと変わり――。
 そして、自分にとってその名を持つ者の存在が、これほどまでに大きく、またかけがえのないものとなっていたのだろう……。









 ジョーとフランソワーズを乗せた車は、何時の間にか賑やかな雑踏を潜り抜け、研究所方面に向かうハイウェイへと差し掛かっていた。
 進行方向が変わったため――ちょうどフランソワーズの斜め左上方あたりの夜空には、微かな散らばりを見せる星屑に紛れて蒼白い満月が秘めやかに輝いている。


「そう言えば……今日フランソワーズたちが観て来たのって、何て言う舞台だったんだい? 美香さん……って、キミからも初めて聞く名前だけど――」
 彼女が主役(プリマ)?、とジョーが尋ねると、
「あ……ううん。今日私たちが行ったのは、バレエの公演じゃないのよ」
 フランソワーズはそう言って、首を小さく2、3度横に振った。
「……? でも、キミと一緒だった彼女たちは、みんな同じバレエ学校の……」
「ええ。実は今日の美香さんのコンサート――クラシック・コンサートだったんだけど、それへは、今度のロシア公演でメインを踊る私たち4人に、アズナブール先生が『今、日本にいるなら、公演前に一度生で彼女の音楽を聴いて勉強しておくといい』って……フランスからチケットを送ってくださったのが切欠で行くことになったの」
「ふう…ん……」

 一瞬――ジョーの脳裡に、以前、遥かなる北の大地で出会った1人の青年の顔が浮かんで消えた。

「……バレエの先生がクラシックのコンサートを勧めることなんてあるんだ」
「心を震わせる本当に素晴らしい音楽は、バレエでの表現力や感性を高めるのにとてもプラスになるの。最近までヨーロッパに留学していた美香さんは、音楽会で若き天才と謳われるハープ奏者で……。今日はバイオリン四重奏との共演をコンセプトに、本当に素敵な曲をたくさん聴かせてくれたわ」
 言いながら……フランソワーズは、あの儚くも美しい旋律の調和が与えてくれた大きな大きな感動を、単純に『素敵』という月並みな言葉でしかジョーに伝えられないことが本当に残念でならなかった。
 ジョーの方も、どこかもどかしげな彼女の気持ちを悟ったのか、
「そんなに素敵なコンサートなら……ボクも聴いてみたかったな」
と――薄闇の中、どこまでも続くアスファルトを変わらず見据えながら、優しい眼差しでそう告げるのだった。

(……キミと、一緒に)

 最後のこのセリフこそ……胸の奥底にしまい込んだまま、口にはできなかったけれど。

「1年くらい前――病気で亡くなられた彼女のお父様が、アズナブール先生の昔からの親友だったんですって。本当は先生も、親友の忘れ形見である美香さんが創り出す幻想的な音の世界観を、彼女が舞台に立つ度に実際の自分の目や耳で確かめたいと思ってるそうなんだけど……」
「……」



 ――『アズナブール先生』。
 ジョーは、先程からフランソワーズの声がその名を奏でるのを聞く度に、心の裡が少しざらつくような……そんな奇妙な感覚が湧き上がってくることへ戸惑いを感じ。
 ……そして同時に、その感情の動きをどこか冷静に受け止めているもう1人の自分がいることにも気づいていた。
 なぜなら、彼――アズナブールが、フランソワーズに対して『大切な教え子』として以上の感情を抱いていることを、ジョーは良く……知っていたから。












 ジョーが実際に彼と顔を合わせたのは、はらはらと粉雪の舞うロシアでの一度だけ。


 あのとき、ジョーはつかの間の平和な世界で普通の人間として幸せな生活を送っているだろうフランソワーズに、再び自分と同じサイボーグ戦士としての黒き宿命の十字架を背負わせるため……。彼女が祖国フランスで所属するバレエ団の海外遠征を追い、その地であるロシアを訪れていた。


 ――本当なら……もう二度と、彼女を戦いの渦に巻き込みたくなんてかった。
 彼女に災いや哀しみを齎すような知らせなど持たず、ただ純粋に彼女の暖かい笑顔に逢うことができたなら、どんなに……と、大空を翔ける飛行機の中で、彼女が白鳥の湖を華麗に舞う劇場の片隅で、いったい何度思っただろう。
 だからこそ――ジョーはロシアの大地を踏み締めても、すぐには彼女へ自分の姿を見せることなく、遠くから気づかれないよう、そっと静かに彼女自身を見守り続けていた。
 場合によっては、そのまま彼女には何も――自分が此処へやって来たことさえも知らせず、日本へと戻るつもりで。
 それなのに……。



 無事公演を終えたフランソワーズが、ジークフリート王子役に扮していた優しく誠実そうな青年と2人きりで洒落た雰囲気の漂うレストランに入ってゆく光景を見てしまったとき――。
 ジョーの脚は知らず彼らの後を辿り、その右手は躊躇うことなく閉ざされた店の扉を静かに開け放っていた。
 中へ脚を踏み入れれば当然、自分の姿をフランソワーズに見止められる可能性が格段に上がることも……『引き返せなくなる』こともわかりきっていたのに。

 ……もちろん、ジョーには2人の間に割って入るつもりなど欠片もなかった。
 席だって、彼らが座る位置からは遠くの、目立たない場所を案内してもらおうと思っていた。
 けれど――。


 レストランの入口で1人佇む、薄茶色のロングコートに身を包んだジョーの姿に……フランソワーズは気づいた。
 ――気づいてしまった。
 しばらく茫然と彼を見つめていた彼女は、ハッと我に返る表情を見せると、すぐに自分とアズナブールが座るテーブルへ自ら進んでジョーを招いた。
 アズナブールも、心中少なからず複雑な想いを抱きながらも紳士的にジョーのことを迎え入れた。

 ……それが果たして、ジョーが心のどこかで微かにでも望んでしまっていたシナリオだったのかどうかは、未だに彼自身にもよくわからない。
 2人の間を邪魔するつもりでレストランに赴いたわけではないという気持ちに、決して偽りはなかった。
 ただ――。
 あのときジョーは、フランソワーズが『彼』と、自分の知らない遠い世界へ行ってしまいそうなのが怖くて……気づいて欲しかったのかもしれない。
 自分も此処に……彼女のすぐそばにいるのだということを。







 結局――フランソワーズは、アズナブールとフランスでバレエの道を歩むよりも、ジョーとともに戦火に身を投じることを選んだ。
 3人で何となく気まずい感の食事をした後、先に1人で席を立とうとしたジョーに従った彼女が、真っ白い雪の降り積もる公園で彼にそう決意を示したのだった。
『もう……逢えないかと思った……』
 今にも泣き出しそうな表情で小さくそうつぶやくフランソワーズが、たまらなく愛しかった。
 すぐにでもきつく強く抱き寄せて――この腕の中に閉じ込めてしまいたいくらいに。



 しかしジョーにはその夜……フランソワーズと次の日の朝空港で落ち合う約束をして別れた後、ホテルへ戻った自分を訪ねてやって来たアズナブールが、ひたすら真っ直ぐに『フランソワーズを愛している』と告げたときのあの真摯な瞳も忘れることができなかった。

 熱い――眼差し。

 その眼差しで、彼はずっとフランソワーズを大切に包み込むように見守り……想いを暖め続けてきたのだろう。
 アズナブールは、愛するフランソワーズを世界一のバレリーナに育て上げたいと望む自分の元から、突然に現れてはその彼女を日本へ連れ去ろうとしているジョーへ――。
 揺れるジョーの茶色の瞳から視線を逸らさずに、どうかこのまま彼女の……フランソワーズの目の前から黙って消えて欲しいと言った。
 類稀なる才能を持ちながらも、なぜか満足にバレエに打ち込みきれず過ごした度重なる紆余曲折の日々を乗り越え、やっとこのロシアで世界的バレリーナとしての大きな一歩を踏み出した彼女を、これ以上惑わせないで欲しい……と。


 時折フランソワーズが親しげに話していた『島村ジョー』という人物に初めて出会い、その人柄とレストランでの彼女の様子から、彼女がジョーに惹かれていることをひしひしと感じてはいたアズナブールだったが……いや、感じていたからこそ。
 彼にはそう言わずにはいられなかった。
 例えそれが、卑怯な脅し文句に他ならないと……頭では理解できていても。


 そんなアズナブールに対し、自分がサイボーグであることに負い目を感じて強気になりきれなかったジョーは。
 努めて精一杯の冷静さを装いながら、
『もう一度改めて――すべての選択はフランソワーズ自身の決断に委ねます』
そう……懸命に低い声を外へと押し出した。
 どの道を選ぶのも、彼女の自由なのだから――と。



 ……不安だった。
 けれど、それ以上に――彼女への情熱のすべてを惑うことなく自分へぶつけてきたアズナブールを前にして、素直になりきれない……ネガティヴな答えしか導き出せなかった自分の狡さの方が、ジョーの心を深く責め貫いていた。









 あれから――約1年。
 フランソワーズは今も……こうして『ボクのそば』(ここ)にいる。

 あの日、アズナブールはジョーの部屋を出る際、ある意味あくまで『紳士的』な態度で接するしかなかったジョーへ、心から『ありがとう』と感謝の意を述べると、その言葉の後に落ち着いた声色で、

『これから、明日のタイムリミットが来る前に……フランソワーズを説得しに行くつもりです』

と語った。


 彼がどのようにフランソワーズへ説得を試みたのか……また、彼が彼女にこれまで秘め続けて来た想いを打ち明けたのかどうかは知らない。
 自分もそのときのことを問いたりはしなかったし――彼女も話さなかった。
 けれど、今、彼女は……此処にいる。
 つと手を伸ばせば、すぐにでもそのぬくもりに触れることができる――この場所に。



 2週間後に迫ったフランソワーズの今度のロシア公演には、フランスから『彼』のバレエ団もやって来るという。
 普段の手紙や電話などでは何気ないように振舞っていても……。
 誰かを本当に深く想う人の気持ちというものは、どれだけ永い離れ離れの時間や距離が想いを寄せる相手との間を隔てていても、そう簡単に変えられるものではないということを……ジョーは誰よりも痛感している。
 空白の時間(とき)を越えて、再び同じロシアの地でフランソワーズとの再会を果たしたとき、彼は……そして、彼女はどうするのだろう……。












「……ジョー?」
 ふいに名を呼ばれてハッと振り向くと、フランソワーズが訝しそうな表情(かお)でジョーを見つめていた。
「な、何だい、フランソワーズ?」
「どうしたの? 急に何だか……怖い顔して」
「なっ……何でもないよ。何でも。そんなに怖い顔……してた?」
「ええ、それはもう……眉間に深い溝ができるくらいに」
「フ、フランソワーズっ!」
「ふふっ……」


 ちらちらと街の灯りが見え隠れしていたハイウェイからの景色に、やがてゆっくりと漆黒の闇が広がり始めた。
 底知れぬ闇の正体は、果てしなき大海原。
 ほんの少しだけ窓を開けると、吹き抜ける風に乗って微かな潮の香りが2人の元へふわりと届いた。


「ねえ、ジョー。『Tesorito』っていう言葉の意味、知ってる?」
「テソリート……?」
 唐突な質問に思わず目を丸くするジョーへ、フランソワーズがくすっと微笑い声を洩らす。
「実はね、この言葉……美香さんがコンサートのラストナンバーとしてハープのソロで聴かせてくれた、オリジナル曲のタイトルにもなってる言葉なの。『Tesorito』って、スペイン語で『大切な宝物』っていう意味なんですって。美香さんにとってのそれは、世界にたった1台しか存在しない、お父様が創られた形見のハープだそうなんだけど……」
 フランソワーズは胸の前で軽く両手の指先を合わせると、長い睫毛に縁取られた瞳をそっと伏せた。
「その曲を弾くときにね、美香さん……『あなたにとっての一番大切な『何か』を思い浮かべて、ぜひ聴いてください』って……そうメッセージを残してから弾いてくれたの」
「大切な……」
 ジョーがふっと囁くように彼女の言葉を繰り返す。
 再び蒼色の光を覗かせたフランソワーズは、その輝きにジョーを映してこくんと柔らかく頷いた。
「ハープの澄んだ音色と切なげなメロディーラインがホントに綺麗で……つい引き込まれてしまって。彼女が言うように『大切な人』を想ってこの曲を聴いてたら、私……何時の間にか泣いてたの。自分でも全然……気がつかないうちに」
「……フランソワーズ……」

 ふとそのとき、ジョーは彼女の心の破片がすうっと自分の中へ流れ込んでくるような不思議な感覚を覚えていた。
 まるで、目には見えない何かがひとつに溶け合うかのように。

「……それだけ誰かを感動させることができるなんて……美香さんって本当にすごい……天性の才能の持ち主なんだね」
「ええ……でも、才能だけじゃないと思うわ。彼女……きっととても優しくて素敵な心を持ってるのね。そうでなければ、あんなに素晴らしい曲は絶対に作れないもの……」
「……そうだね」


 ――ジョーは思った。
 フランソワーズがそれほどまでに美香さんの曲に共感できるのは、彼女もまた澄んだ透明な心を持っているに違いないからだと。

(フランソワーズ……)

 すれ違いだらけの毎日に焦らされていたのは、フランソワーズだけではなかった。
 今日だって、ジョーが約束もないまま勝手に彼女を迎えに来てしまったのは、少しでも早く彼女に逢いたいと願う気持ちがどうにも抑えきれなくなってしまったためであった。
 ジョーがもしもハンドルを握っていなかったら、今のフランソワーズのひたすら無垢で純粋な言葉を聞いた瞬間に、彼女を抱きしめていただろう。
 それほどまでに彼女の何気ない仕草のひとつひとつが、ジョーの心を狂おしいほど捉えて離さなかった。


 2人の間を流れる、心地よい刹那の沈黙。
 高鳴る鼓動。
 先程は言い出せなくて喉の奥へと飲み込んでしまったあの言葉も、ジョーは今なら言える気がした。
 ……フランソワーズ。
 今度は……。


『今度は一緒に、美香さんのコンサートへ……えっ!?』


 綺麗なハーモニーだった。
 最後の、驚いて思わず顔を見合わせる、その一瞬まで。
 どちらからともなく笑い出した2人の声が、2人だけの空間に木霊する。
「連れてって……くれる?」
 躊躇いがちに唇を開くフランソワーズへ、ジョーはこの上ない笑顔で『もちろん』と囁いた。


 ――そのとき、ジョーは思いがけず『彼』に支配され、不安に揺れてしまっていた自分の気持ちが、何だか少し吹っ切れたような気がした。
 心配じゃない、と言えば嘘になる。
 けれど、2人の想いが深く通じ合っていることがわかった今……恐れるものは何もなかった。





 不意に、フランソワーズがじっとジョーを見つめた。
「……聞かないの?」
「え?」
「私が何を想い浮かべて……『Tesorito』を聴いたのか、ってこと」
 少し拗ねたような口調で言うフランソワーズに、ジョーはああ、と小さく微笑った。
「大丈夫だよ」
「……?」
「『大切な「人」』って……フランソワーズ、言ってたよね? キミが思い浮かべたその人のことは、たぶん……ボクが誰よりも知ってると思うから」
「……っ!!」

(それに、ボクがキミの話を聞いて真っ先に思い浮かべた人も……)





 ジョーはハンドルを左に切ってハイウェイを下りると、海岸通りの路肩へおもむろに車を止めた。
「ジョー……?」
「ちょっと……寄り道してから帰ろうか」
「え……?」
「――それとも、月夜のドライブは……嫌?」
「……!! ジョーったら……あ……」
 続けて何かを言おうとしたフランソワーズの言葉は、甘い口づけの中に消えた。


 遠い遠い空の彼方から降り注ぐ、淡い月明かり。
 抱きしめたフランソワーズの暖かなぬくもりを身体いっぱいに感じながら、ジョーはまだ知るはずのない『Tesorito』の調べを微かに聴いたような気がした。



― Fin ―





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この作品は、2002年10月10日発行の
Cyborg009 Fan Book『Pure Moon』に掲載したものです。
(HP掲載にあたり、一部加筆修正しました)