†† Moon.2 Francoise Distortion ††

 

 ――気がつくと……私は1人、この場所に佇んでいた。
 辺り一面真っ暗な――闇に閉ざされた世界。



 なぜ私が此処にいるのか、この場所がどこなのか……今このときが現実なのか夢なのかさえ、私にはわからない。



 ただ感じるのは……襲いくる奇妙な感覚。
 心の裡がざわついて、まるで心と身体がバラバラになってしまうかのような……。

 この空間は……いったい……?







 額に手を翳し、神経を研ぎ澄ます。


 どうして?
 何も視えない。
 ――聴こえない。
 私には、『眼と耳』があるはずなのに……!





 ………変、よね。
 『普通の人間になりたい』と――そう願う度にサイボーグとしての能力を疎ましく思う私が、こんなとき真っ先に……この能力に頼るなんて。
 でも………。







 塗り潰された視界。
 ともすれば押し潰されてしまいそうな黒の恐怖に、愛しい人の名前が思わず胸に込み上げる。





 ……ジョー………どこにいるの?












 ――あれから、どのくらいの刻が流れたのかしら……。



 何も感じることのできないこの世界で、辛うじて脚に伝わる『大地』の感触。
 それだけを頼りに、ここまで歩いてはきたけれど……。
 でも、本当に私は……?





 もうずっと……永遠を彷徨っているみたい………。









 静寂の支配。
 囚われてゆく自我意識――。



 ふと、視界の中で、遠く微かに煌く『何か』。
 私は此処で初めて……私以外の存在を見つけた。





 闇に埋もれて鈍く銀色に光るそれは、とても大きな円盤状の――。
 ……ううん。
 きっと……元は綺麗な、円盤状だったはずのもの。
 ところどころ、強い力によってひしゃげてしまったかのような、歪んだ時計。



 ――私の身体が、なぜか惹かれるように……操られるがままに、その時計を両手でそっと拾い上げる。
 動かない二本の針。
 その文字盤の頂点に刻まれるのは――あるはずのない『13』の文字。





 瞬間――。


 突如時計の中心から吹き荒れる、激しい風。
 止まっていた二本の針が、音を立てて軋みながらゆっくりと……左へと回り始める。









 ……吸い込まれる。





 刻の……彼方へ――………。

















 ――気がつくと……私は1人、この場所に佇んでいた。
 辺り一面真っ暗な――闇に閉ざされた世界。



 繰り返される虚無。
 おぼろげな記憶として脳裡に蘇る不可思議な時計の向こう側と、何も変わらない空間。
 でも………。





 紫……。
 向こうに、淡く紫の……霞が見える……。




 揺らめく色彩に光を求めて、私は再び歩き始める。



 次第に鮮やかさを増す輝きが、ぼんやりと映し出す人影(シルエット)。
 優しい栗色の髪をそっと風に靡かせる、あの後ろ姿は……!







 『ジョー!』







 ――声を限りにして、思い切りそう……叫んだつもりだったのに。
 その名は周囲に木霊することなく、まるで闇に溶けるように消えてしまった。
 何度呼んでも、彼に私の声は届かない。





 ………それでも。



 なぜか不意にジョーが私の方へと振り返りかけたそのとき、私は初めて気がついた。
 ジョーの姿とぴったり寄り添い重なる影。
 彼の……ジョーのそばにもう1人、誰かが……いる――?





 絡み合う視線。
 それは、ジョーと私ではなく……ジョーと彼の腕の中にいる『誰か』。
 私へ向けられようとしていた彼の瞳は、少しの躊躇いも見せずに『誰か』を見つめることを選ぶ。



 ジョーがこの上なく愛しそうに抱きしめるその女性(ひと)は、過去に一度だけ逢ったことのある……美しい黒髪の――。









 暖かい眼差し……。
 彼女を包み込むジョーのぬくもりが――想いが、私の心へは鋭い刃となって容赦なく突き刺さる。



 あなたのその優しい微笑みは、私だけが知っていると思ってた。
 抱き寄せる腕の逞しさも、身体が溶けてしまうほどに熱く甘い口づけも、私だけが知っていると――。









 ――そう。
 今……すべてを思い出したわ……。
 知らずこの世界に降り立ったことを自覚したあのとき、ジョーのことを真っ先に思い浮かべたのは、心に巣食う不安だけが原因じゃなかった。
 私は消えてしまったジョーを探して……此処へ来たの。
 何かに誘われるように、この場所へ。
 けれど――……。









 此処にいることは許されない存在の私。
 虚空に浮かぶ月の光も、私を照らし出してはくれない。





 紅い月が、私に冷たく翳を落とし。
 ――蒼い月が、私を冷たく凍らせる。







 ――ジョー。





 運命の悪戯に引き寄せられなければ、決して出逢うことのなかったはずの……強い意志と優しさで、どんなときも私を護り導いてくれた異国の騎士。
 私が唯一心から愛した……たった1人の男性(ひと)――。



 ………だからこそ。
 狂った運命の先にしか存在しない私より、本来あなたが辿るべき道の先で待つ彼女のそばにいることで、あなたの心が安らぐのなら……。
 その微笑みが、私以外の女性(ひと)のものだとしても……。
 あなたの幸せを壊すことは……私には………。







 黒き無の世界にたゆたう紫の霧が、私の身体に纏わりつく。
 月の光を浴びて、目の前で蜃気楼へと変わる二人の姿のように……永久(とわ)に還らない想い出は、こんなにも儚くて。



 懸命に伸ばした指先からすり抜けてゆく、あなたの面影。
 月は厳かな光を放ち、もう彼はいないと――。





 彼の澄んだ琥珀色の瞳に、私は……二度と映らない。












 明けない夜。
 真紅の海の底に沈みゆく魂。
 最後に聴いたあなたの声を、このままずっと胸に抱いて――終わりのない深き眠りへと堕ちていけたら……どんなに………。





 視界が滲んで……あなたが……見えなくなっていく………。
 あなたの腕の中には、私の居場所は……もう………。

 

  

 

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