File3 : Lie & Misunderstanding





 それは、絶えず届くはずの海風の音すら小さな、ある静かで穏やかな夜――。
『コンコン』
と、ふいにギルモア研究所の2階に響き渡る渇いたノック音から、すべては始まった。

   

   

「ジョー。……ちょっと……いいか?」
「……ジェット?」

 月明かりに照らされて――ベッドにもたれるような格好でヘッドフォンから流れ来る音楽へ身を委ねていたジョーは、予期せぬ来訪者を半ば訝りつつも迷うことなく扉を開ける。

「……よう」
「めずらしいね。ジェットが試合(レース)前にボクの部屋へ来るなんて……」

 言いながら、ジェットに背を向けたジョーがステレオに手を伸ばすと、クッションの上へ放り出されたヘッドフォンから微かに聴こえていた音楽も止み――辺りは完全なる静寂に包まれた。
 レース直前のジェットはいつも、ひとり独自のスタンスで自らの闘争心を程よく高揚させることを好む。
 同じように――ひとり精神集中を図っていたジョーの部屋には、ぼんやりと淡いオレンジ色のスタンドの明かりしか灯っていなかったので、彼は天井にかかる蛍光灯へと通ずる壁のスイッチを入れようとしたのだが……。

「いや、このままでいい」

と、ジェットがその動きよりも早く、そして静かに彼を制したのだった。

(……ジェット……?)

 普段のジェットの様子とどこか違った雰囲気に、ふと戸惑いを覚えるジョー。

「ど……どうしたんだい、ジェット? 何だか妙に……改まって」
「………」
「ジェット……?」
「ここまで来たら、もう後には退けねぇ……よな」
「……?」

 何かを噛み締めるように俯くジェットの表情を、ジョーが怪訝そうな顔で覗き込む。
 次の瞬間、ジェットはそんな彼の瞳をキッと見据えると、限りなく真摯な眼差しを真っ直ぐに向けたまま……ジョーの両肩を力強く掴んでこう言った。

「――ジョー。お前……フランソワーズのこと、どう思ってるんだ?」
「!? なっ……!!?」

 思いもがけないジェットの言葉は、明らかにジョーへ動揺を走らせる。

「いっ……いきなり何言い出すんだよ、ジェット!!」

 掴まれた腕から逃れるようにして、ついと顔を背けるジョー。
 その彼の表情は、ちょうどスタンドの明かりの死角に入り、ジェットからはよく見えなかった。

「俺にとってはちっとも『いきなり』じゃないぜ、ジョー。もうずっと前から……お前に訊きたかったことだ」
「え……」

 その一瞬――絡まり合う2人の視線。
 思いつめた瞳と、驚愕に揺れる瞳。
 先に永い沈黙の時間(とき)を嫌ったのは、ジェットの方だった。

「……いや、悪い。いいんだ。本当は俺だって……痛いほどわかってるさ。お前がフランソワーズのことを心から――彼女をこの世界中の誰よりも大切に思ってる、ってことくらい。それに、フランソワーズの心もきっと……お前と同じように……お前のことを……」
「ジェ……ット………」

 目を伏せ、自嘲気味に紡がれてゆく彼の言葉が、いくつもの鋭い棘となってジョーの胸に突き刺さる。

(ま、まさか……ジェット、君は……。君も……?)

 ――知らなかった。
 いや、まだハッキリとそう……彼が告げたわけじゃない。
 ……がしかし、今のジェットの言葉が告げる真意は、どう考えても……。

「けど……けどな。俺だって……」

 振り払おうとしても後から後から湧き上がってくる疑念を、ジョーは抑えることができなかった。
 ……次のジェットの――このセリフを聞くまでは。

「俺だって……誰よりもお前のこと、想い続けてきたんだぜ!?」
「……はぁ!!?」

 一転。
 思わず丸くした目を2、3度瞬かせ……ジョーは己の耳を疑った。
 疑って、疑って……それでも、もう一度聞き返すことは――何となく憚られて。

「な゙っ、ななな、何言ってるんだよ!? ジェットっっ!! 悪い冗談は……」
「冗談? 冗談でこんなこと、言えるわけねぇだろ!? いろいろ考えてきたけど……どうしてもダメなんだ。やっぱりお前を……フランソワーズには渡せねぇ」
「ちょっ……待っ……ええっ!!?」

 見上げた先にあるのは、怖いくらいに真剣な――ジェットの瞳。
 何の前触れもなく展開してゆく予想外過ぎる出来事に対し、完全にパニックに陥ってしまったジョーはもうどうしていいのかわからない。

「ジョー……」

 そんなたじろぐジョーを他所に、ジェットはなおも彼に迫る。
 ジェットは、後ずさったせいでベッドに倒れ込んでしまったジョーのすぐ脇にゆっくりと左手をついた。

「………」
「ジェ、ジェット……?」

 頬を伝う冷たい汗。
 圧し掛かってくる影に顔が引き攣るのが……自分でもわかる。

「……ジョー……!」
「う……うわあああぁぁっ!! ジェ……ジェットっ!!」

 刹那。ジョーは知らず両目をギュッと瞑り、声を限りにして叫んでいた。

「たっ、頼むから落ち着いて……!!」
「――プッ」
「え?」
「わははははーーーっっ! どうだ、驚いただろ!?」
「な……!?」

 うっすら開いた視線の先で、途端にころころと笑い転げるジェットに茫然とするジョー。
 彼がお腹を押さえてベッドの上――自分のすぐ隣で大の字になるのを見てハッと我に返ったジョーは、すかさずガバッとその身を起こして彼を問い詰めにかかった。

「ジェットっ!! いったいどういうつもりなんだよっ!?」
「くっくっ……お前、今日が何日だか言ってみ?」
「今日だって!? それが何の……!!」
「ホレ、いいから」
「……き、今日は4月……あ;;;」
「そういうこと。なかなかシャレのきいたジョークだっただろ?」
「〜〜〜っっ!!」

 してやられた、という悔しさのあまり言葉の出ないジョーとは逆に、ますます高らかに響くジェットの笑い声は止まるところを知らない。

「くーーーっ、この俺様の素晴らしい演技力、かの伯爵さんにも見せてやりたかったぜ! くくっ……それにしても、お前のあのマジな表情(かお)!! やっぱこう、ジョークで引っ掛ける相手はお前に限……ん?」

 ユラリ……と足元に立つジョーの静かな殺気に気づき、寝転んだままのジェットがおもむろに言葉を切る。

「ジ……ジョー?」
「『そういうこと』……ね」

 普段はあまり聞く機会のない――冷ややかなジョーの声。

「なっ、何だよ、ジョー。そんな……怖い顔して。せ、せっかくの男前が台無しだぜ?」

 ……な? とジェットは恐る恐る、はにかむ笑顔でジョーをなだめようとその様子を窺うが――。

「ジェットおっ!!」
「わーーーっっ!! ジョー! まっ、待て待て待てーーーっっ!!」

   

   

 トントントン……。
 亜麻色の髪を揺らして、階段に軽やかな足音が木霊する。

「くすっ……ホントにいい香り……」

 そう小さくつぶやくフランソワーズが抱えたトレイの上の2つのカップからは、彼女の鼻腔を擽る優雅な香りとともに暖かそうな湯気がふんわりと立ち上っていた。

(この紅茶、リラクゼーションの効果があるってお店の人が言ってたから……きっと今のジョーにはピッタリだわ)

 嬉しそうな微笑みを浮かべ、自然と微かに柔らかな歌を口ずさむフランソワーズ。
 ……とそのとき。廊下に伝わる奇妙な声は、どこからともなく突然彼女の耳へと飛び込んできた。

『痛てててて!! わかった! 俺が悪かったっ!!』
「……?」

 階段を昇りきったところで、ふとフランソワーズが立ち止まる。

(今の声……よくは聞き取れなかったけど、ジェットの声……よね?)

 フランソワーズの持つ特殊能力は、彼女自身が眼や耳のスイッチを入れなければ発揮されることはなく――日常生活ではよほどのことがない限り、彼女がこの能力を使うことはない。

(でも……ジェットも今ごろ部屋で集中してるころだし……)

 気のせいかしら……と思い直したフランソワーズは、改めてジョーの部屋の前まで来ると、ひとつ小さな深呼吸をしてノックした。
 ――コンコン。
 ………。

「ジョー……?」

 しばらく待ってみても……返って来るのは静寂ばかり。

(いないのかしら……)

 一瞬そう考えたフランソワーズだったのだが――。

『……っ!!』

 耳を澄ますと、扉を隔てた部屋の中から、何か慌ただしいようないくつかの『音』が聞こえてくることを彼女は聞き逃さなかった。

(? ヘンね……中から話し声は聴こえるのに……)

 もう一度ゆっくりと、目の前の白いドアを叩いてみる。
 けれど、内側からは誰かがドアの方へ近づこうとする気配はおろか、返事すらも聞こえて来ない。
 相変わらず僅かに耳にできるのは、時折犇くような物音と……まるで言い争いのような声。
 不審に思ったフランソワーズがそっとドアノブへ手を掛けると、扉はいとも簡単に彼女をジョーの部屋へと招き入れた。

「あ……ジョー? ノックしたんだけど、返事がなかったから……勝手にごめんなさい」
「……だから、悪かったって!!」
「遠慮することないよ。それならボクからも、心を込めて言ってあげるから……」
「こっ……怖ぇからそのにこやかな表情(かお)はよせって! それに、さっきからお前に込もってんのは心じゃなくて力だろうがっっ!!」

 彼の部屋と彼女とを遮っていたものが開かれてゆくことによって、内部の音がフランソワーズにも徐々によく届くようになっていっていることに……ジェットもジョーも気づかない。
 フランソワーズも最初は中で繰り広げられている光景など、見えないことと聞き取り難いこととでまったく気にもとめていなかったのだが……。

「実は今日、レッスンの帰りに見つけたお店で買ってきた……」
「ボクもジェットのことが……」
「おいしいって評判の紅茶を入れてみたんだけ……」
「……それはそれはずっと気になって仕方なかったんだっっ!!」

 ――がっしゃん。

「え」「え」

 同時に振り向いた先に映る、1人の人影。
 部屋の入口方向で鳴った食器の割れるけたたましい音に、ベッドの上でもつれ合うジョーとジェットの2人は、初めてそこに誰か人がいることを認識した。
 それも、よりにもよって――。

「フっ……フランソワーズ……」
「………」

 手はトレイを持っていたときの状態のまま、トレイを取り落としたことにすら気づいていない、といった表情で呆然と立ち尽くすフランソワーズ。

「あ……い、いや……その……これは………」

 咄嗟に慌ててそこまで口にはしたものの。
 ジョーにとって、この皆無に等しい時間の中でその後に繋げるに相応しい言葉を見つけることなど……到底不可能だった。
 彼女の蒼く澄んだ瞳に映っているであろう、自分がジェットをベッドに組み敷く姿。
 そして――極めつけはあのセリフ。
 これでは誤解をするなという方が難しい。

「フラン……ソワーズ………?」

 ジョーがあれこれと言い訳を考えているうちに。
 何時の間にか床の上の割れた破片をすべてトレイに集め終えたフランソワーズは、まるで無感情の声色で

「……お邪魔、しました」

とだけ告げると――パタン、とドアを閉めて行ってしまった。

「フ、フランソワーズ!!」
「ありゃ少なくとも、エイプリル・フールの一貫……とは思ってねぇな。……たぶん」

 『まるで他人事』とでも言わんばかり、ベッドに仰向けになったまま腕組みをしつつやけに冷静に頷くジェット。

「っ!! 何1人で納得してるんだよ!? 元はと言えば、ジェットがヘンなこと企んだりするから……っ!! ……フランソワーズっ!!」

 そんな彼への当然と言えば当然とも言える悪態もそぞろに、すかさずフランソワーズを追って部屋を飛び出してゆくジョーの後ろ姿を横目で見送りながら。
 ジェットは次第に込み上げてくる笑いを、どうにも堪えることができなかった。

   

   

 リビングのソファーにゆったりと腰を下ろし、分厚い本へ目を馳せていたハインリヒの前を、薄いピンク色の影が通り過ぎた。
 ロングスカートの翻った床後に、ポタポタといくつもの紅茶の雫が零れ落ちているのを見て、

「……フランソワーズ?」

と、ハインリヒが訝しそうに彼女へ声を掛けたのだが。
 彼女は彼の方を振り向くこともなく、ただひたすら黙って隣のキッチンの奥へと姿を消してしまった。

「お、おい……」

(仲がいいとは思ってたけど……でも……でもっ。……んもう、ジョーったら……私にだってあんな積極的になってくれたことないのに……っ!!)

 すれ違いざまのフランソワーズが、そんなフクザツ(?)な想いに完全に捕らわれてしまっていることなど夢にも思っていないハインリヒ。
 さらに不審そうに顔を顰めた彼が、あまりにらしくない彼女を心配して立ち上がったちょうどそのとき――。

「フランソワーズ、誤解なんだ! アレはジェットが……」

 すぐそばにいたハインリヒには目もくれず、バタバタと後からやって来てはそのままキッチンへと直行するジョーのその言葉を耳にした瞬間、ハインリヒはピンと何かを直感し……。
 ――そして、深いため息をついた。

「アイツ……さてはジョーにもやったな……」

   

   

 明日に控えたGP第2戦。
 懸命の説得の末、何とかフランソワーズへの誤解を解いたジョーは、『明日は何があっても絶対にジェットだけには負けるまい』、と固く心に誓うのであった……。


                               ~ Fin ~

 


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